さて、走水砲台と川間ドックの後は観音崎の南の岬にある千代ヶ崎砲台跡に行ってみます。

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川間ドックの少し先、急な坂道を延々と登って行くと千代ヶ崎砲台に辿りつきます。こちらは走水砲台に比べると全然高い位置にあります。土曜日曜祝日のみの公開となりますが、ボランティアガイドによる親切な案内と説明もあります。いずれも無料ですが、ガイドをしてもらうと地下内部まで入らせてもらえます。

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千代ヶ崎砲台は明治28年(1895年)完成。こちらは塁道という通路。左手の盛り土された部分の向こう側が砲台となります。明治大正期の砲台は基本的には石積みで、ところどころに煉瓦が使われています。ちなみに東京湾の砲台に使われている石材は、対岸の富津市鋸山で産出された房州石と言われています。

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ここは終戦まで使われていましたが、戦後、昭和35年(1969年)より海上自衛隊の通信施設、千代ヶ崎送信所として利用されてました。左手のコンクリートの壁面は自衛隊施設時代の名残り。ちなみにコンクリートは幕末より日本に入って来ていましたが、一般的に建築で使われるようになったのは関東大震災後と言われています。

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塁道から各砲座までは地下通路で繋がっています。千代ヶ崎送信所は2013年に閉鎖され、2016年に横須賀市管轄となります。以降、埋め立てられた砲座を掘り返すなどの発掘作業や施設整備を経て、2021年に一般公開されるようになりました。

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濾過池(奥)と沈殿池(手前)。こちらでは雨水を集めて濾過し、飲料水としていました。

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明治20年代以降の建築なので、ここの煉瓦はオランダ積み(イギリス式)となります。入り口付近の色が黒っぽい煉瓦は焼き過ぎ煉瓦と言って、焼き過ぎる事で撥水効果を出しているとか。

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雨水が当たる所は黒ずんだ焼き過ぎ煉瓦。煉瓦建築も知れば知るほど奥が深い。

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塁道に面しているのは兵員詰所や倉庫。火薬はその奥の地下部分になります。

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兵員詰所を内部から見たところ。当時の鉄扉や窓枠などの金属部品は、戦後の混乱期に悉く盗まれてしまったとか。左下の小さな穴は換気口。

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部屋の一番奥には排気口があります。

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排気口の地上部分はコンクリートで埋められてました。

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こちらが詰所の奥にある火薬庫。

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火気厳禁なのでランプは部屋の外にあり、明かり取りから採光する形。

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火薬庫の中には地上の砲座に火薬を揚げる縦穴が2箇所あります。

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火薬庫の奥の階段を昇り砲座に出て来ました。

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千代ヶ崎砲台には3箇所の砲台があり、それぞれに28ミリ榴弾砲が2門づつ、計6門の大砲がありました。

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砲台は土塁に囲まれたすり鉢状となっています。これは敵艦に発見されないためで、逆に砲撃する際は観測所から角度やタイミングが指示されます。

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昔の潜水艦映画などで見るような、通信するための管。これで観測所からの指示が届きます。ガイドさんの説明を聞きながら巡ると砲台の構造が良く理解出来て面白いです。

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これが砲座の一つを上から見たところ。東京湾要塞の砲台は、その大部分が三浦半島に集中しています。それはひとつに東京湾の入り口である浦賀水道が、最も対岸との距離が近い事。もうひとつは千葉県側は遠浅で水深が浅いため、艦船はどうしても三浦半島の東海岸に沿って航行しなければならない事。

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一度埋まっていたこれらの砲座を掘り出したと言うのだから、ほぼ発掘作業ですね。また当時の大砲は飛距離も無く命中率も低いため、浦賀周辺以外に造る意味があまり無かったそうです。

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こちらは先程まで歩いていた塁道を土塁の上から見たところ。この千代ヶ崎砲台は他の各砲台と同様、結局火を噴く事はありませんでした。それもそのはず、大艦隊で東京湾に押し寄せたところで、浦賀水道を抜けるには一直線に並ぶしか無く、いい標的となってしまうのでわざわざ東京湾から上陸しようとは思いません。実際、太平洋戦争末期、アメリカが計画した首都制圧作戦(コロネット作戦)では相模湾と九十九里浜に上陸する予定でした。

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もちろん抑止力としての役目は果たしましたが、それ以前に徳川家康が幕府を開く地に江戸を選んだ時点で、天然の要塞は出来上がっていたとも言えます。