前回、廃仏毀釈をテーマに取り上げようと秩父の山奥まで足を運んだのに空振りに終わり、消化不良だったので改めて調べ、その物証を求めて川崎市麻生区に来ました。
小田急新百合ヶ丘駅より千代ヶ丘行きのバスに乗り千代ヶ丘三丁目で下車。丘の上はニュータウンと言うより、古くから存在した農村と言った雰囲気も残っています。
北東へ少し歩くと禅宗の香林寺と言う立派なお寺があります。広大な墓地に囲まれ、石仏の並ぶ境内の先には五重塔まで。
その敷地の外周部に、首を斬られた石仏が並べられていました。これらの石仏は明治8年に廃仏毀釈によって廃寺となった真言宗延命院の跡地を、昭和38年に宅地造成した際出土した物だそうです。
改めて廃仏毀釈に触れて行きたいと思いますが、まずはその引き金となった明治政府による神仏分離政策から触れて行きます。
仏教国教化を国策としていた徳川幕府に対し、明治新政府は国民の檀家制度などによる宗教負担を軽減させるとして神道国教化を目指しました。そのためにはまず、それまでごっちゃだった神社と仏閣を分ける必要がありました。それにしてもこの香林寺、昭和から平成にかけてどんどん豪華になって行きます。周辺の土地開発によって土地を売ったりしたからでしょうか。
次に訪れたのは小田急多摩線の五月台駅。谷を渡る高架線の下に、お地蔵様や石仏が並んでいます。これは廃寺となった古沢村の真言宗福正寺の物と考えられています。ちなみに神道国教化はキリスト教を布教しようとする欧州列強の反発を買い、結局その政策は放棄されました。同時に神道は宗教とは別と言う認識も広がって行きます。
神仏分離政策は決して仏教に対する宗教排斥でもなんでもなかったと言います。しかしそこから自然発生的に、あるいは糸を引いていた人物がいるのかもしれませんが、廃仏毀釈運動が全国的に広がって行きました。
神仏分離が一斉に廃仏毀釈に至った原因は、明治維新後の国情不安や、旧幕府時代の身分特権に安住し腐敗していった僧侶への反感、土地や釣鐘などの寺院財産を狙った一部の地方官や宮司などによる扇動など、様々な時代背景によるものと考えられています。当時の仏教は江戸初期の寺請制度により全国民がどこかしらの寺の檀家となり、仏教界は安定した収入を得てさらに寺領も与えられました。反面神社はと言えば収入も少なく地位を失っていきます。
次に訪れたのは小田急多摩線の黒川駅の北西、黒川谷戸と呼ばれる田園耕作地帯です。今でこそベッドタウンのイメージが強い多摩地区ですが、鎌倉街道も近く古くから人々の暮らす農村地帯でした。
ここは昔寺の谷戸とも呼ばれ、北東側の丘陵に金剛寺と言う寺が存在しました。この金剛寺もまた廃仏毀釈によって廃寺となりました。当時の廃仏毀釈運動では暴徒化した人々が石仏を破壊する他、仏像、経巻、仏具の焼却や破却に至ったそうです。その際、多くの美術的価値の高い仏像や国宝級の物が、破壊されたり焼却されたり二束三文で海外に売られたりして失われてしまいました。まさに伝統文化の破壊です。
取ってつけた様な簡素な鳥居の脇には、首を斬られた石仏が並んでいます。江戸末期頃から水戸藩などで広まった儒教思想、さらに国学をもとに鎌倉時代よりも前の日本古来の宗教観や文化を復活させようと言う動きが始まり、後の尊王論や廃仏に繋がって行きます。
ちなみに廃仏毀釈運動が最も激しかったのは明治新政府、薩摩のお膝元である鹿児島県で、当時1066あった寺院の全てが廃寺となり、県内の僧侶2964人が還俗(俗世に還る)、或いは神主へ転職させられたとされています。その行動は苛烈を極め、仏閣の焼き討ちまであったとか。そのため現在でも鹿児島県は全国で最も寺の数が少ないそうです。
鳥居の奥には毘沙門堂が残っており、旧金剛寺の檀家の子孫や地元の方々が手厚く管理されているそうです。金剛寺もそうですが川崎市麻生区で廃寺となった寺院の中で最も多かったのは真言宗、つまり密教系のお寺だそうです。これは修験道や密教が明治の近代化に反するとされていた事からだそうで、そのため全国的に見ても山岳信仰と仏教が習合した修験道のお寺では、修験禁止令が出されて仏教要素が排され多くが神社となり、真言宗に属する神宮寺は悉く神宮神社となりました。例えば榛名神社、三峰神社、出羽三山神社、戸隠神社、白山神社、熊野神社など、それ以前は修験道のお寺でした。
奥の斜面には幾つかの墓石も建っています。廃仏毀釈運動は明治初期の一時的な集団心理による狂気であり、その後仏教は復興の道を辿ることとなります。
最後に柿生の東を流れる真福寺川沿いにあった真福寺跡。この寺は真言宗王禅寺の末寺でしたが明治6年、廃仏毀釈運動によって廃寺とされてしまいました。しかしその真福寺と言う名前は今でも河川や小学校、公園、町内会などの名前に残されています。
寺跡に並ぶお地蔵さんは、旧王禅寺村真福寺谷の鎮守である白山神社から移設されたもので、この白山神社も神仏混淆の時代より真福寺と深く関わっていた事が伺えます。
ここまで廃仏毀釈運動を追って来ましたが、もしこの運動が自然発生的な集団ヒステリーなどではなく、薩長による明治新政府の画策だとしたら。国のトップを将軍から天皇に切り替えるわけだから、まず天皇の神格化(尊王論)が必要となります。つまり神道を復興させるために、仏教国家だった幕藩体制下の世を文字通り一度破壊し、文明開花を為す必要があります。これは武家社会の破壊と同時に行われたのかも知れません。いずれにしても廃仏毀釈は、急速な近代化の犠牲であったと言えるのではないでしょうか。
小田急新百合ヶ丘駅より千代ヶ丘行きのバスに乗り千代ヶ丘三丁目で下車。丘の上はニュータウンと言うより、古くから存在した農村と言った雰囲気も残っています。
北東へ少し歩くと禅宗の香林寺と言う立派なお寺があります。広大な墓地に囲まれ、石仏の並ぶ境内の先には五重塔まで。
その敷地の外周部に、首を斬られた石仏が並べられていました。これらの石仏は明治8年に廃仏毀釈によって廃寺となった真言宗延命院の跡地を、昭和38年に宅地造成した際出土した物だそうです。
改めて廃仏毀釈に触れて行きたいと思いますが、まずはその引き金となった明治政府による神仏分離政策から触れて行きます。
仏教国教化を国策としていた徳川幕府に対し、明治新政府は国民の檀家制度などによる宗教負担を軽減させるとして神道国教化を目指しました。そのためにはまず、それまでごっちゃだった神社と仏閣を分ける必要がありました。それにしてもこの香林寺、昭和から平成にかけてどんどん豪華になって行きます。周辺の土地開発によって土地を売ったりしたからでしょうか。
次に訪れたのは小田急多摩線の五月台駅。谷を渡る高架線の下に、お地蔵様や石仏が並んでいます。これは廃寺となった古沢村の真言宗福正寺の物と考えられています。ちなみに神道国教化はキリスト教を布教しようとする欧州列強の反発を買い、結局その政策は放棄されました。同時に神道は宗教とは別と言う認識も広がって行きます。
神仏分離政策は決して仏教に対する宗教排斥でもなんでもなかったと言います。しかしそこから自然発生的に、あるいは糸を引いていた人物がいるのかもしれませんが、廃仏毀釈運動が全国的に広がって行きました。
神仏分離が一斉に廃仏毀釈に至った原因は、明治維新後の国情不安や、旧幕府時代の身分特権に安住し腐敗していった僧侶への反感、土地や釣鐘などの寺院財産を狙った一部の地方官や宮司などによる扇動など、様々な時代背景によるものと考えられています。当時の仏教は江戸初期の寺請制度により全国民がどこかしらの寺の檀家となり、仏教界は安定した収入を得てさらに寺領も与えられました。反面神社はと言えば収入も少なく地位を失っていきます。
次に訪れたのは小田急多摩線の黒川駅の北西、黒川谷戸と呼ばれる田園耕作地帯です。今でこそベッドタウンのイメージが強い多摩地区ですが、鎌倉街道も近く古くから人々の暮らす農村地帯でした。
ここは昔寺の谷戸とも呼ばれ、北東側の丘陵に金剛寺と言う寺が存在しました。この金剛寺もまた廃仏毀釈によって廃寺となりました。当時の廃仏毀釈運動では暴徒化した人々が石仏を破壊する他、仏像、経巻、仏具の焼却や破却に至ったそうです。その際、多くの美術的価値の高い仏像や国宝級の物が、破壊されたり焼却されたり二束三文で海外に売られたりして失われてしまいました。まさに伝統文化の破壊です。
取ってつけた様な簡素な鳥居の脇には、首を斬られた石仏が並んでいます。江戸末期頃から水戸藩などで広まった儒教思想、さらに国学をもとに鎌倉時代よりも前の日本古来の宗教観や文化を復活させようと言う動きが始まり、後の尊王論や廃仏に繋がって行きます。
ちなみに廃仏毀釈運動が最も激しかったのは明治新政府、薩摩のお膝元である鹿児島県で、当時1066あった寺院の全てが廃寺となり、県内の僧侶2964人が還俗(俗世に還る)、或いは神主へ転職させられたとされています。その行動は苛烈を極め、仏閣の焼き討ちまであったとか。そのため現在でも鹿児島県は全国で最も寺の数が少ないそうです。
鳥居の奥には毘沙門堂が残っており、旧金剛寺の檀家の子孫や地元の方々が手厚く管理されているそうです。金剛寺もそうですが川崎市麻生区で廃寺となった寺院の中で最も多かったのは真言宗、つまり密教系のお寺だそうです。これは修験道や密教が明治の近代化に反するとされていた事からだそうで、そのため全国的に見ても山岳信仰と仏教が習合した修験道のお寺では、修験禁止令が出されて仏教要素が排され多くが神社となり、真言宗に属する神宮寺は悉く神宮神社となりました。例えば榛名神社、三峰神社、出羽三山神社、戸隠神社、白山神社、熊野神社など、それ以前は修験道のお寺でした。
奥の斜面には幾つかの墓石も建っています。廃仏毀釈運動は明治初期の一時的な集団心理による狂気であり、その後仏教は復興の道を辿ることとなります。
最後に柿生の東を流れる真福寺川沿いにあった真福寺跡。この寺は真言宗王禅寺の末寺でしたが明治6年、廃仏毀釈運動によって廃寺とされてしまいました。しかしその真福寺と言う名前は今でも河川や小学校、公園、町内会などの名前に残されています。
寺跡に並ぶお地蔵さんは、旧王禅寺村真福寺谷の鎮守である白山神社から移設されたもので、この白山神社も神仏混淆の時代より真福寺と深く関わっていた事が伺えます。
ここまで廃仏毀釈運動を追って来ましたが、もしこの運動が自然発生的な集団ヒステリーなどではなく、薩長による明治新政府の画策だとしたら。国のトップを将軍から天皇に切り替えるわけだから、まず天皇の神格化(尊王論)が必要となります。つまり神道を復興させるために、仏教国家だった幕藩体制下の世を文字通り一度破壊し、文明開花を為す必要があります。これは武家社会の破壊と同時に行われたのかも知れません。いずれにしても廃仏毀釈は、急速な近代化の犠牲であったと言えるのではないでしょうか。
東東京が長かったので、東京より西はどうしても訪問が少なくなりがちで、このあたりはノーマークでした。
それにしても、明治より前の国民皆檀家制度、ぞっとしますね。
千葉西部の知人の話で、小中とそいつをいじめてた同級生が大人になったら、家がある寺の檀家で「寺を直すから」「入口を直すから」など、何かあるごとに寺から協力金を取られ、坊主はすごくいい車に乗っているとの事。
(もちろん知人は「メシウマ」案件として話してくれましたがwww)
それにしても、廃寺=ハイジと聞くとどうしても「家庭教師のトライ」のCMのほうを思い出してしまいます。
(私は子供の頃、子供むけにつくられた物が苦手で日曜夜あれを見てる兄弟が鬱陶しかったので、ハイジがあんな使われ方しても何とも思いません。しょせんアニメ会社の創作物なので)
このCMを批判している人や、猫を宗教の教祖みたいに扱っている人を見ると、特定の、どうでもいい物を宗教的に絶対視し過ぎる人が現れるのは、欧米のキリスト教のような絶対的な宗教が存在しないゆえの、日本ならではの悲劇のような気がします。