館山航空隊跡から東へ。房総半島の南東端である洲崎方面に行った所に洲崎第二砲台跡があります。

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こちらは砲台へ向かう所の門柱。特に何も刻まれて無いので木の表札でも掛かっていたのでしょう。

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住宅の中にコンクリート造の遺構が。砲弾に火薬を装填する炸薬填実所だそうです。危険なので半地下にしてドーム状で分厚いコンクリートに覆われています。このコンクリートが堅すぎたと言う事で民家はその上に建てられていました。地元の方曰く、ついこの前も写真撮り来てたけど、飛行機の格納庫とか言ってたなぁ。いや、掩体壕はこんなに小さくないし山の中腹だし、そんなわけないでしょうが。

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住宅地の最奥部、この先は人が足を踏み入れてない事が分かります。マジか。ここを行くのか⁉︎

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雑木林の中に、砲台の基部が残っていました。

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この洲崎第二砲台は昭和2年、30センチ榴弾砲4門が完成。しかしその後砲門を満州軍に出したためしばらく砲座は破棄されていました。しかし昭和13年、本土決戦に備えて再開され、12センチ速射カノン砲2門と10センチカノン砲4門があったそうです。ちなみにこれは唯一現存する第四の砲台。

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奥には砲弾などをしまっておく砲側庫があります。

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さらに奥には隧道が。陸軍の迷彩が残っていますが、内部は戦後何かに再利用されたのかコンクリートとタイルで補強されています。また内部には横穴があり弾薬庫としても使われていました。

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砲台のあった坂田海岸から岬一つ手前の波左間海岸。のどかな漁村って感じです。

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しかしここには大戦末期、特攻船「震洋」の基地があったそうです。

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元々ここ波左間海岸には前出の洲崎第二砲台への資材搬入波止場がありました。この階段は当時のものだろうか、いかんせん波の侵食を受けているので、海岸部には当時の遺構は殆ど残っていないと考えた方がいいかも知れない。

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波左間の「震洋」特攻基地跡。干潮時にはもう少し遺構が顔を出すようですが、正午過ぎだったので水没していました。

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付近には数多くの防空壕があります。震洋の訓練施設は長崎と鹿児島にあり、訓練を終えた兵士たちはフィリピン、沖縄諸島、日本本土の太平洋岸各所の基地へと配属されて行きました。

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昭和20年初頭よりフィリピンや沖縄戦線において陸軍の特攻船「マルレ」と共に戦果を挙げて行く中、ここ波左間の震洋基地の建設は昭和20年3月下旬から開始されました。

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このような小さな入り口は燃料や食料などの倉庫だったかも知れません。

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すっかり草に覆われていますが、大きめの防空壕は震洋の格納壕だった可能性があります。

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先週、霞ヶ浦の予科練平和記念館雄翔館に立ち寄った際に撮った震洋の模型。昭和20年7月、第59震洋隊として176名の若き志願兵が完成した波左間基地に配備されましたが、6隻の震洋が基地に到着したのは8月13日になってから。すぐに爆薬を装備し出撃態勢をとっていたなかで敗戦を迎えたそうです。