戦後73年目の終戦記念日ですが、今回は千葉県の銚子の少し手前に残る香取海軍航空基地跡を巡ります。

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香取海軍航空基地は昭和13年に着工、竣工を迎える昭和18年にはかなり戦局も悪化していました。現在その滑走路跡は工業団地になっており、Googleマップを見ると特徴的な十字の地形がはっきりと残っています。
https://goo.gl/maps/tfHYjgCsBNk
上の写真は春海第一掩体壕(後述)に建っている案内板より。

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こちらは南西から北東に延びる1500m滑走路の南西端。道路の対して斜めに工場施設が延びる。

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北西から南東に延びる1400m滑走路と1500m滑走路が交差するあたり。滑走路跡地は基本的に工場の私有地ですが、交差する地点の西側から少しだけ当時の1500m滑走路が見れます。冬に来た方がもっと見渡せたでしょう。

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基地施設は滑走路の西側にありましたが、今では高校やゴルフクラブ、工場などが建ち並びその面影を見ることは出来ません。手前の広い敷地はかつて格納庫などから滑走路へ向かう誘導路だったかと思われます。遠くに見える1400m滑走路跡地はそのまま日清紡の自動車ブレーキ工場のテストコースとなっており、事前に見学を交渉しない限り外からは一切見ることが出来ません。テストコースの周囲は防風林のように木が植えられており、さらに柵にも囲まれています。

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こちらは1400m滑走路跡、現テストコースの北西端。

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滑走路の西側を走る道路脇に、夏草も刈られぬままの小さな公園があります。そこにひっそりと佇んでいるのがこの戦没者慰霊碑です。慰霊碑の中には訓練中に亡くなった方、防空戦や特攻で亡くなった方、そして爆撃や機銃掃射で巻き添えを食った地元住民の方などの名簿が納められています。七十数回目のお盆、献花こそ出来ませんでしたが御冥福をお祈りして合掌。

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神風特攻隊は主に鹿児島県の知覧陸軍航空基地などが有名ですが、昭和20年2月、ここ香取海軍航空基地からも硫黄島などに向けて飛び立って行きました。

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公園の奥には戦後、アメリカより支給された海上自衛隊練習機、ノースアメリカン社製T-6テキサンが展示されています。敵国ながら同じ時代の機体を展示している訳ですが、昭和20年2月に米艦隊空母より飛来し香取飛行場を飛び立った零戦と戦ったのは、グラマンF6F,F4U、カーチスSB2C、ダグラスSBD。零戦を展示することこそ憚かりながらも自衛隊の練習機を展示するのは忖度だろうか。

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香取航空基地の北西端の田園に、戦闘機を格納する晴海第一掩体壕(えんたいごう)が残っています。現在は農機具小屋として使われていますが、隣に解説板(1枚目写真)が立てられています。

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昭和19年10月末、サイパン島より飛び立つことが可能となったB-29はいよいよ本土爆撃を開始します。東京に向けて高度10000mを飛行するB-29に対し高度8000mの射程しか持たない対空砲台は役に立たず、航空機を従来の格納庫に閉まっておいてはいずれ標的にされると考え、滑走路周辺に散らすように防空壕のような掩体壕を建設しました。物資の少ない中砂利を混ぜたコンクリートで造り、上に土を被せて発見し辛くさせています。

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すぐ隣には晴海第ニ掩体壕も残っています。このように屋根の付いてる有蓋掩体壕は全部で25基造られ現在残るのは三基。他にも『コ』の字形に土を盛っただけの無蓋掩体壕も多く有りましたが、それらはすでに面影を残しておりません。

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こちらは基地の反対側、南東端に残る掩体壕です。完全に私有地の中にあり土地の方を見つけられなかったので近寄りませんでした。所有者と思われるお宅も有りましたが、あまりにも立派なお屋敷でピンポンもなかったので、二の足を踏んでしまった。

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近くの畑に海軍旗が掲揚されていました。当時を知る基地に縁のある方がいらっしゃったのかも知れません。もしご老人を見かけていたらお話など聞けたかも知れません。
また、香取航空基地建設の際には多くの地元住民の方々が強制退去させられ、建設の際には多くの朝鮮人労働者が使われたそいです。その朝鮮人労働者たちは基地の南の森に朝鮮部落を形成したと言う話も。それらもまた戦争が引き起こした事象のひとつという訳ですね。