早いもので.2016年も終わろうとしています。もはや毎年恒例にしようと思っている総集編、今年も一年を振り返りながらピックアップして行きたいと思います。

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 今年は年明け早々、悲しい事実を知る事から始まりました。田町と品川の間、運河に掛かる高浜橋の袂に残っていたバラック集落が、立ち退きを迫られた末ついに全滅してしまったのです。高浜橋の架け替え工事計画にかこつけて不法占拠発祥のバラック群を一掃したかったのでしょう、工区とは関係のない範囲も含めたバラック群全域が立ち退き対象とされてしまいました。
 ここのホルモン『はるみ』は何度も飲みに行った店で、女将さん共々多くの常連さん達に愛されていました。オーナーの方はしつこい都の職員にも屈せず頑張っておられたのですが、再開発特区に指定され大きく変貌を遂げつつあった街で、とうとう時代の流れに飲み込まれてしまったようです。

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 その高浜橋から真っ直ぐ第一京浜へ向かうと、東海道新幹線、東海道線、山手線、京浜東北線を潜り抜けるためのトンネルがあります。ここが提灯殺しのトンネルの異名を持つ高輪橋架道橋です。ちょうど旧品川車輌基地の下に当たるため距離が長く、そして何よりも天井が低いため、タクシーの屋根に乗っている通称提灯がスレスレなのです。
 しかしこのトンネルも、車輌基地跡地の再開発に伴い消滅すると思われます。なにしろ山手線の新駅は出来るわ将来的にはリニアの駅も出来るわで、かなり大規模な再開発となるでしょう。

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 船橋から海岸の近くまで歩いたところにバラック群があります。この地域は都疎浜と言い、戦時中都心から疎開して来た人々がそのままこの地に住み着いたと言われています。しかしその中でも運河を背にした一帯は戦後のドサクサに不法占拠して建てていたため、市から移転を迫られていました。現在でも一部住んでいる方が居るのですが、運河に杭を打ち込みせり出す形で建ててあるため、バラック建築の多くが写真のように運河へと落ち込み倒壊寸前となっています。

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 まだまだ寒かった三月、二回に渡って旧関東鉄道鉾田線(旧鹿島鉄道)廃線跡を訪れました。ここは私がまだ小学生の頃、旅好きの父親に連れられてローカル線の旅として訪れた鉄道です。しかし当時の私は霞ヶ浦沿岸の、延々と続く葦の原野に失望した覚えがあります。風光明媚な車窓の景色を期待していた私は、想像したのと違うと思ったのです。しかし歳を重ね、改めて訪れようと思った時にはすでに廃止され、その遺構を歩くしかありませんでした。写真は八木蒔駅跡。森の中の素晴らしい駅ですが、もうここにディーゼルカーのエンジン音が鳴り響くことはありません。

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 旧鉾田線の終着駅のあった鉾田の街を歩いていた時、このガソリンスタンドの廃墟が目を引きました。まるで空爆に遭った戦地のような、と言うと大袈裟ですが、この光景は非常に印象に残りました。東日本大震災で液状化現象を起こし、鉾田駅及び周辺の線路も甚大な被害を受けた事を契機に鉄道が廃止され、過疎化に拍車が掛かりました。このガソリンスタンドは、そんな寂れてゆく街を象徴するかのように思えました。

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 小学生の頃、父親に連れられ訪れた真鶴水族館は廃業寸前で、その廃退的な雰囲気が強く印象に刻まれています。思えばそんな幼少期の記憶が、今の廃墟好きのルーツとなっているのかも知れません。その追憶の彼方に眠っていた真鶴水族館跡地に、我ながら物好きだなあと思いながら訪れてみました。海岸へと降りる廃道を進むと、そこは生け簀跡の堤防がただ残るだけの建造物も何もない入り江。しかしその奥には、忘れ去られたかのように磨崖仏の観音様が海を眺めながら佇んでいました。

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 今年、いや、今までで最も感動したと言える共同浴場の平治温泉。河原に向かって畦道を下って行くと、林の中にポツリと一軒の掘っ建て小屋。外来者にも解放されているとはいえ半地元専用の共同浴場のため看板も何も出ておらず、ここがまさか温泉とは誰も気付きません。このシチュエーションもさることながら、気泡がびっしり肌を包む鮮度抜群な炭酸泉も素晴らしい。個人的な好みとしては非の打ち所がない一湯でした。

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 伊豆高原にある廃ループ橋。幾つかの廃墟サイトでその存在を知り、いつか行って見たいと思い続けていた念願の場所です。いつしか打ち棄てられ、解体されもせずただ放置され続け、一部崩落してもなすがまま。今年に入って特に私の中で廃墟巡りがエスカレートした訳ですが、この廃道に入るために道でも何でもないただの斜面をよじ登った時、自分の中で何かが吹っ切れたような。悪い意味で(笑)。なんかもう後戻り出来ない領域へと足を踏み入れてしまった、そんな気がしてなりません。

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 石切り場としてテレビにも紹介され有名となっているのは栃木県の大谷石採掘場ですが、ここ群馬県の藪塚石採掘場はマイナー過ぎて殆どの方が知らないと思われます。大谷石採掘場に比べて規模も小さく坑内にも入れないという、ほとんど観光地化されていない遺構ですが、山の中に突如現れる人工的な断崖は、非日常的な光景を見せてくれます。

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 廃墟好きが高じて、今年は廃校もチェックするようになりました。この鬼石小学校跡は昔の姿を綺麗に残す貴重な木造校舎です。鬼石を訪れた時は路線バスの本数が少ない中で、この廃校跡と温泉にターゲットを絞って巡りましたが、宿場町としての街並みも見事なので、今一度訪れてみたいと思います。

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 今年は茨城、千葉、群馬、埼玉と、足を伸ばすことが多かった。都心はだいたい撮り尽くしてもう面白いネタも無くなったかな、なんて思っていました。しかし探せばまだまだ面白い街はあるものです。ここ本郷界隈は関東大震災や東京大空襲の際に火災から逃れていたため、古い木造建築が多く残されています。文豪が暮らしていた街という見方で歩くと意識高い系の観光客みたいになってしまいますが、実際に歩くと写真のような下宿屋のような木造建築を見つける楽しみがありました。

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 三業地、という言葉自体を恥ずかしながらこれまで知りませんでした。料亭、待合い、芸妓置屋が営業を許可されたエリアの事を三業地と言うのですが、それまでは神楽坂や向島、赤坂などの事を「ただの料亭街」と呼び、庶民的な赤線、青線、遊郭などと区別していました。しかし、三業地として探せばまだまだ知らない花街の多い事に驚かされます。そんな三業地の中でも大塚は、人知れずしかし現存し続ける花街の一つです。歩いて調べて初めて知ることが、都心にもまだまだ沢山あることを思い知らされました。

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 9月に入って二回ほど内房を訪れました。富津岬周辺はアクアラインの開通により多くの人が訪れるようになり、三井アウトレットパークなどの巨大施設も建ちホテル三日月も大人気。そんな中、年に一度ゴールデンウィークにしか人が来ない限定観光地である潮干狩り場に、海に続く電柱群という珍しい景色があります。ただ、最近この場所はテレビなどで紹介されるようになって以来すっかりメジャーになってしまい、しかも満潮の夕方の凪いでいる時に水面に映る電柱群という、非常に幻想的な景色がちゃんとしたアマチュアカメラマンの方々によって撮られているため、日帰りスケジュールで午前中にパッと行ってパッと撮った写真などでは全然見劣りしてしまいます。しかし、これも消えゆく景色の一つであるのは確かです。

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 6Frogus様という私の敬愛するサイトがあるのですが、そこで過去に紹介されていてずっと行きたいと思っていたスポット。岩谷観音堂です。現在では行政主導のもと保存への動きがあるようですが、以前は地元の方しかその存在を知らず、荒れ放題だったとか。その頃に行って見たかったと思うばかりですが、今でもその存在はほとんど知られる事無くひっそりと佇んでいます。

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 千葉県の房総半島には太平洋戦争末期、米軍による首都上陸に備え、様々な軍事施設が造られました。特に内房地域には今でも砲台跡や弾薬庫跡などの遺構が人知れず残っています。その一つ、山あいの畑の中に有人特攻ミサイル、桜花の発射用カタパルト跡が、草木に覆われ眠っています。幸いにも本土決戦の前に終戦を迎えたため使われる事はありませんでしたが、貴重な戦争遺跡です。

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 9月末に行った北海道旅行は衝撃の連続でした。特に帯広の街の広大なスナック街と、その荒廃ぶりは歩いてみて初めて知りました。帯広スナック街は碁盤の目に造られた街の至る所に「コ」の字、または「ニ」の字形の長屋造りという特徴的な造りになっています。特に写真のスナック長屋は全滅しており廃墟化していました。

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 本来は糠平湖湖底に残るタウシュベツ橋梁跡を見るツアーを予約したのですが、今年の夏は異常気象で雨が多かった影響もあり、例年より三ヶ月も早くダム湖の水位が上昇。タウシュベツ橋梁は湖の底に沈んでしまいました。代わりに開催されたのが廃線跡、旧士幌線のアーチ橋を巡るツアーでした。本来の目的とは変わったものの、その内容の濃さは充分過ぎるほどでした。

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 浦山ダムのダム湖周辺に点在する限界集落には過去訪れた事が有りましたが、その周囲の山々に多くの廃村が存在する事を後に知り、リベンジの意味で再訪しました。写真はその廃村の一つ、茶山集落跡です。想像以上に家屋が残されており、また秩父地方山間部特有の斜面にへばりつく集落は圧巻でした。また廃村探訪はこの時が初めてで、すっかりハマってしまう事に。

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 茶山、嶽集落を訪れた翌週、写真の栗山集落と山掴集落を訪れました。この二つの集落はさらに足場が悪く生活道は崩れかけているため、斜面をよじ登って回らなければなりません。それだけてはなく集落の中に熊の糞が転がっており、つまりガチで熊出没注意なのです。訪れるにはそれなりの装備と心の準備が必要です。しかしながらこの栗山と山掴集落の雰囲気は凄まじいものがあり、一度は行くべきだとも思います。

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 特に山掴集落は今年最も印象に残った場所と言えます。杉の生い茂る山肌、たとえ廃村でなくしても、ここに集落がある事自体あり得ない光景です。どのような人々がどのような暮らしをしていたのか、山育ちの私でも全く想像がつきません。薄暗く湿った木立の中の家々は非現実的で、生活感すら感じられませんでした。

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 今年の上旬、千葉の栄町を訪れた後時間が有ったので、津田沼の温泉銭湯鷺沼温泉に立ち寄りました。しかし運悪く臨時休業で入れず、12月になってやっとリベンジする事が出来ました。何もない住宅街の中に突然姿を現す、屋根の崩れかけたバラック建築。看板が無ければまさか銭湯だとは思いません。しかも入って見れば地元の常連しか分からないシステムや至るところが放置プレイなところ、激熱な湯船など、戸惑う事ばかり。ここまで来ると貴重な存在です。

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 その存在を初めて知ったのは関東懐旧街さんというサイトに紹介されていた記事を読んでから。ずっと気になっていた場所ですが、埼玉の真ん中というのは「どうせ何もない」という先入観から、どうしてもモチベーションが上がらないのです。しかし、行ったら行ったで面白い場所はあるものです。握津集落は都心を水害から守るための荒川改修工事で堤防が集落より内陸部側に築かれてしまい、文字通り取り残されてしまった村です。住人たちは全て堤防の内側へと引っ越し家屋は全て取り壊されてしまいましたが、広大な農地は元住民たちの手により今でも耕作されています。そのため集落の痕跡を残しつつも人の往来は有るので、農村から家屋だけが消滅したという不思議な雰囲気を醸していました。

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 今年最後の締めは大塚の立ち飲み屋『秀吉』。今年は初夏の頃から大塚に仕事で通い、この街のポテンシャルに驚かされました。新宿の隣の大久保にかつて住んでいた私にとって、池袋の隣の大塚はとても居心地の良い街でした。都市の隣には貧民街やホテル街がある。上野に鶯谷、新宿に大久保、渋谷に神泉円山町。池袋に対するホテル街は分散していますが、どこかやさぐれたこの街の雰囲気は懐かしさすら感じる。そんな大塚で一軒の立ち飲み屋さんが消えて行きました。

 そんな訳で一年を振り返ってみましたが、今年はとにかく廃墟と立飲みどきどき温泉な一年でした。都内の町歩きはほとんどせず、逆に千葉や埼玉、茨城、神奈川などへの日帰り旅が多かった。本当は関西や九州も行きたかったのですが、それはまた来年に持ち越しという事で。
 それでは、今年も一年ありがとうございました。来年もまた新たな探検を続けて参りますので、宜しくお願いいたします。皆様も良いお年を。