※本記事のタイトル及び内容に於いて、地名を根本的に間違えていました。
 この廃村、旧茶平集落を栗山集落と混同して茶山と書いてしまい、そのままおよそ一年間気付かないまま放置してしまいました。誤った情報を記載してしまい、お詫び申し上げます。
 一年越しで気付いて恥ずかしいこと恥ずかしいこと。なんて言うか、朝バタバタ家を出てラッシュの電車で通勤して、勤務先に着いて初めてチャック全開だったことに気づくような、そんな恥ずかしさ。


 浦山地区は7年ほど前に一度訪れた事があります(埼玉県秩父(1)、浦山ダムと限界集落)。前回はダム湖に沈んだ寄国土集落の名残りを求めて訪れましたが、数年後その湖畔の集落の奥に廃村があると知り、再び訪れようと心に誓いながら何年も経ってしまいました。

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 浦山ダムのダム湖であるさくら湖の東岸を進むとやがて県道は寄国土(ゆするど)トンネルに入り、そのトンネルを抜けた所に茶平集落への別れ道があります。西武秩父駅近くの国道沿いより浦山地区へ向かう市営バス(ワンボックス)が1日3往復運行されており、廃村へと登る道の入り口には茶平口という誰も利用しないであろうバス停もあります。運転免許を持っていない者としては実に有り難い。

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 延々と続く坂道を登り続けて行くと、やがて沢を渡る辺りに三叉路があります。この辺りが旧茶平集落跡。いきなり廃屋が出迎えてくれます。

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 三叉路の辺りの畦道を入ると4軒ほどの廃屋が。

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 いつ頃から人が住まなくなったのかちゃんと調べてませんが、ただの空き家と言った感じの家も残っています。

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 この生活道の狭さが限られた土地に密集して建てられていることを物語っています。

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 4軒の廃屋の左手を登る生活道の跡を入って行くと、古い石垣が見えて来ます。

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 この辺りには5軒ほどの廃屋が密集しています。

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 家々を結ぶ生活道は人一人が通れるほどの畦道のみ。軒先きまで車は入って来れず、車社会になる前の山里の景色を残しています。

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 廃屋のほとんどがかなり古い木造建築で、倒壊してしまった建物もあります。

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 しかし、まさに時が止まってしまったかのよう。

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 この三輪車は某廃墟サイトでも見かけましたが、この場所に置かれてどれくらいの年月を過ごして来たのか。

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 集落から沢を挟んだ向こう側には畑の跡らしき石垣がありました。一説によればこの茶平という地名は茶畑があった事からという話もありますが、耕地は狭く谷底のため日当たりも悪いです。副業として炭焼き小屋などを建てて炭を作っていたとも言われてます。

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 江戸期は害獣対策として領主より鉄砲を賜っていたと言われています。なのでマタギのように狩猟も行っていたのではないかと思われます。秩父には小鹿野のような狩猟を生業として来た地域も多く有りますし、集落の真横に沢が流れているので近くで獲物を解体する事も出来ます。

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 そのため、昔この辺りに住んでいた人々は部落差別を受けていた可能性も考えられますが、その辺は地元の方にしっかりと時間をかけて取材しなければなりません。

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 ここ浦山川沿い一帯は江戸中期には17の集落に180軒もの家屋が存在したそうです。

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 家々の土台を成す石積みはかなり古い物ばかりで、中には江戸期の物も残っているかもしれません。

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 ここ茶平集落を始めとする浦山地区の廃集落群は廃墟好きの間でも有名で、多くの人が訪れています。そのため心無い輩に荒された集落もあったようで、家々には立ち入り禁止の札が貼られています。

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 とはいえこの茶平集落に関して言えば訪れた廃墟好きの方々のマナーが良かったのか、全くと言っていいほど手付かずで残されています。

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 私も中には進入せず、玄関先や軒先きから撮らせていただきました。

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 今後もこの集落が当時の姿を残したままの状態で、ゆっくりと倒壊し自然に帰して行くことを願います。

埼玉県秩父市浦山地区(1)、ダム湖と限界集落
埼玉県秩父市浦山地区(3)、廃村、嶽集落
埼玉県秩父市浦山地区(4)、廃村、栗山集落(前編)
埼玉県秩父市浦山地区(5)、廃村、栗山集落(後編)
埼玉県秩父市浦山地区(6)、廃村、山掴集落
埼玉県秩父市浦山地区(7)、浦山中学校跡と川俣小学校跡