太平洋戦争終結前、日本は本土決戦を想定し様々な対応策を取っていました。そのひとつ、アメリカによる本土上陸作戦を迎え撃つ用意のひとつとして、東京湾の入り口である三浦半島と房総半島を要塞化して行きました。そのため、特に内房には砲台跡や弾薬庫跡などが多く残されています。

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 今回、那古船形を訪れた最大の目的は桜花秘密基地の探索にありました。平群行き路線バスに乗り平山で下車。那古宿からさして離れていませんが、ここはもう南房総市。ネット情報をもとに山あいへと歩いて行きます。ふと、あぜ道を登って行くと謎の注連縄。

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 結界が張られている!などと中二病的な独り言を呟きながら登り切ると、何もない平地の端っこに小さな祠と墓石らしきものが。何でしょう。謎です。謎過ぎます。

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 農道を歩き廻るも桜花発射台跡らしき物は見当たらず、農作業をしていたご老人に聞いて見ることに。すると癖の強い方言でなんとなくの場所を教えて頂きました。この辺を登れば良いのだろうかと農家の脇の農道を登って行くと、それは畑の中に突如姿を現した。

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 これが桜花発射台跡です。雑草に覆われたコンクリート造りの遺構ですが、発見した時は正直鳥肌が立ちました。

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 桜花とはロケットエンジンを搭載した有人ロケット爆弾という特攻決戦兵器です。開発は終戦の前年、1944年の春。最初は一式陸攻(爆撃機)に搭載して敵艦隊近くで投下し、有人操縦により命中させるという、つまりは有人ミサイルのような物です。しかし一式陸攻が桜花の射程距離に近づけなかったり桜花自体の故障が多かったりと目立った戦果は上げられないまま、戦況は悪化の一途を辿っていました。最終的に本土決戦必至となった1945年、決戦兵器桜花を投下ではなくカタパルト発射出来るよう改良し、関西は比叡山、関東は千葉と横須賀などに発射施設を建造しました。

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こちらは靖国神社の遊就館に展示されている桜花の実物大復元模型です。

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 発射台先端から発射台基礎を見ます。かつてはこのコンクリート基礎にカタパルトのレールが設置されていました。そのレールは現在、川向こうの知恩院というお寺に残されていますが、バスの時間の都合上見に行く事は出来ませんでした。

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 発射台の奥は開けており、この更に奥には桜花の地下格納庫が有ったそうです。この秘密基地は敵に発見されぬよう山間部に造られました。しかし基地がほぼ完成し、カタパルト発進に対応した桜花43乙型も配備されようとした時、日本は終戦を迎えました。この桜花秘密基地が使われずに済んだ事で、桜花によって散る尊い命が、それ以上増えずに済んだのは不幸中の幸いと言えましょう。また、このような戦争遺跡を遺す事により、太平洋戦争について色々と調べ、そして知る機会になりました。訪れて良かったと心から感じます。