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埼玉県飯能市、白岩石灰採掘所跡

※写真の点数が多かったので、2つの記事を3つに分けました。

 もう一月も半ばですが、あけましておめでとうございます。昨年は埼玉の廃村で締めくくりましたが、年明け一発目もまた廃村からスタートします。

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 去年訪れた浦山地区より廃村を繋ぐうわごう道で鳥首峠を越えた先、山の東側は飯能市(旧・名栗村)になります。西武池袋線の飯能駅からバスで入間川上流域を登って行くのですが、路線バスが1時間に2本ペースで走っており、思いの外便が良いです。またアニメ『ヤマノススメ』のラッピングバスも走っていることからアニメの聖地巡礼でも集客があるようで、それにしても特に観光地化されてもいない山里でこれだけバスの本数が多いのは、今の時代奇跡に近いと思います。国際興行バス頑張ってる。

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 途中には『さわらびの湯』という日帰り入浴施設もあります。帰りに立ち寄ってみましたが、源泉温度15度の冷鉱泉を加水加温、循環濾過し、塩素消毒された単純温泉で、あまり特徴を感じられないお湯でした。内湯と露天があり、内湯はジャグジーで撹拌されているのに対し、露天はお湯が少々汚い。ちょっとイマイチな感じでした。

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 バス停の近くにはいきなり廃墟。造りからして老人ホームかなにかでしょうか。

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 終点の名郷バス停から県道73号線を、途中キャンプ場などを眺めながらひたすら登って行きます。渓谷を流れる水は澄んでおり、夏場はさぞレジャー客で賑わうだろうなどと思いながら歩いていると通学路の標識。これから訪れる白岩集落の子供たちは、かつてこの道を毎日通っていたのでしょう。

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 県道を登り切るとJFEミネラル武蔵野鉱業所に辿り着きます。

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 事前にネットで調べたところここに巨大な石灰プラントが有ったはずなのですが、なんと既に操業停止、それどころか解体されすっかり更地になっていました。

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 帰ってから改めて調べてみたところ、2015年3月末をもって閉山してしまったとの事。ここ数年、タッチの差で消えてしまった物件が余りにも多いです。もっと早く来ていれば。

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 プラント跡の脇に鳥首峠への登山道があり、その先に旧白岩集落跡があります。プラントの脇に沿ってしばらく登ると、眼下の工場敷地内に線路が見えて来ます。ここが第一の目的地だったのですが、既に廃止されていたとは悔やまれてなりません。

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 線路はすぐトンネルに入り、尾根の向こう側に出ます。短い区間ですが頂上手前の採石場から降ろして来た鉱物を、プラントまで運び出す役割を担っていました。私は青年時代よりずっと狭軌の軽便鉄道や森林鉄道、専用線などへの憧れがありました。下津井、立山、奥大井(観光用として現存)、尻屋崎など、絶滅寸前に訪れたナローゲージはたった4箇所。もっと昔の時代に生まれたかったなんて思ってみたりもします。

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 登山道を鳥首峠方面へと歩いて行くと、並行してミカン畑などでよく見るモノレールが敷かれてますが、これはプラントからトンネルを抜けて来た専用軌道の終点から、山頂近くの採石場まで作業員を運ぶために使われていたそうです。

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 登山道を旧上白岩地区まで登ると視界が開け、左手には採石場から崩れ落ちて来たのか、石灰瓦礫の斜面が広がる。頂上付近が採石場になるのですが、そこまで登る道はありません。しかしここで謎が。採石場ではダンプや大型重機などが作業していたのですが、その採石場までの作業道が全く見当たらないのです。

 廃村、白岩集落の記事へと続きます。

【年末スペシャル】記憶に残った情景(2016総集編)

 早いもので.2016年も終わろうとしています。もはや毎年恒例にしようと思っている総集編、今年も一年を振り返りながらピックアップして行きたいと思います。

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 今年は年明け早々、悲しい事実を知る事から始まりました。田町と品川の間、運河に掛かる高浜橋の袂に残っていたバラック集落が、立ち退きを迫られた末ついに全滅してしまったのです。高浜橋の架け替え工事計画にかこつけて不法占拠発祥のバラック群を一掃したかったのでしょう、工区とは関係のない範囲も含めたバラック群全域が立ち退き対象とされてしまいました。
 ここのホルモン『はるみ』は何度も飲みに行った店で、女将さん共々多くの常連さん達に愛されていました。オーナーの方はしつこい都の職員にも屈せず頑張っておられたのですが、再開発特区に指定され大きく変貌を遂げつつあった街で、とうとう時代の流れに飲み込まれてしまったようです。

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 その高浜橋から真っ直ぐ第一京浜へ向かうと、東海道新幹線、東海道線、山手線、京浜東北線を潜り抜けるためのトンネルがあります。ここが提灯殺しのトンネルの異名を持つ高輪橋架道橋です。ちょうど旧品川車輌基地の下に当たるため距離が長く、そして何よりも天井が低いため、タクシーの屋根に乗っている通称提灯がスレスレなのです。
 しかしこのトンネルも、車輌基地跡地の再開発に伴い消滅すると思われます。なにしろ山手線の新駅は出来るわ将来的にはリニアの駅も出来るわで、かなり大規模な再開発となるでしょう。

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 船橋から海岸の近くまで歩いたところにバラック群があります。この地域は都疎浜と言い、戦時中都心から疎開して来た人々がそのままこの地に住み着いたと言われています。しかしその中でも運河を背にした一帯は戦後のドサクサに不法占拠して建てていたため、市から移転を迫られていました。現在でも一部住んでいる方が居るのですが、運河に杭を打ち込みせり出す形で建ててあるため、バラック建築の多くが写真のように運河へと落ち込み倒壊寸前となっています。

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 まだまだ寒かった三月、二回に渡って旧関東鉄道鉾田線(旧鹿島鉄道)廃線跡を訪れました。ここは私がまだ小学生の頃、旅好きの父親に連れられてローカル線の旅として訪れた鉄道です。しかし当時の私は霞ヶ浦沿岸の、延々と続く葦の原野に失望した覚えがあります。風光明媚な車窓の景色を期待していた私は、想像したのと違うと思ったのです。しかし歳を重ね、改めて訪れようと思った時にはすでに廃止され、その遺構を歩くしかありませんでした。写真は八木蒔駅跡。森の中の素晴らしい駅ですが、もうここにディーゼルカーのエンジン音が鳴り響くことはありません。

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 旧鉾田線の終着駅のあった鉾田の街を歩いていた時、このガソリンスタンドの廃墟が目を引きました。まるで空爆に遭った戦地のような、と言うと大袈裟ですが、この光景は非常に印象に残りました。東日本大震災で液状化現象を起こし、鉾田駅及び周辺の線路も甚大な被害を受けた事を契機に鉄道が廃止され、過疎化に拍車が掛かりました。このガソリンスタンドは、そんな寂れてゆく街を象徴するかのように思えました。

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 小学生の頃、父親に連れられ訪れた真鶴水族館は廃業寸前で、その廃退的な雰囲気が強く印象に刻まれています。思えばそんな幼少期の記憶が、今の廃墟好きのルーツとなっているのかも知れません。その追憶の彼方に眠っていた真鶴水族館跡地に、我ながら物好きだなあと思いながら訪れてみました。海岸へと降りる廃道を進むと、そこは生け簀跡の堤防がただ残るだけの建造物も何もない入り江。しかしその奥には、忘れ去られたかのように磨崖仏の観音様が海を眺めながら佇んでいました。

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 今年、いや、今までで最も感動したと言える共同浴場の平治温泉。河原に向かって畦道を下って行くと、林の中にポツリと一軒の掘っ建て小屋。外来者にも解放されているとはいえ半地元専用の共同浴場のため看板も何も出ておらず、ここがまさか温泉とは誰も気付きません。このシチュエーションもさることながら、気泡がびっしり肌を包む鮮度抜群な炭酸泉も素晴らしい。個人的な好みとしては非の打ち所がない一湯でした。

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 伊豆高原にある廃ループ橋。幾つかの廃墟サイトでその存在を知り、いつか行って見たいと思い続けていた念願の場所です。いつしか打ち棄てられ、解体されもせずただ放置され続け、一部崩落してもなすがまま。今年に入って特に私の中で廃墟巡りがエスカレートした訳ですが、この廃道に入るために道でも何でもないただの斜面をよじ登った時、自分の中で何かが吹っ切れたような。悪い意味で(笑)。なんかもう後戻り出来ない領域へと足を踏み入れてしまった、そんな気がしてなりません。

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 石切り場としてテレビにも紹介され有名となっているのは栃木県の大谷石採掘場ですが、ここ群馬県の藪塚石採掘場はマイナー過ぎて殆どの方が知らないと思われます。大谷石採掘場に比べて規模も小さく坑内にも入れないという、ほとんど観光地化されていない遺構ですが、山の中に突如現れる人工的な断崖は、非日常的な光景を見せてくれます。

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 廃墟好きが高じて、今年は廃校もチェックするようになりました。この鬼石小学校跡は昔の姿を綺麗に残す貴重な木造校舎です。鬼石を訪れた時は路線バスの本数が少ない中で、この廃校跡と温泉にターゲットを絞って巡りましたが、宿場町としての街並みも見事なので、今一度訪れてみたいと思います。

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 今年は茨城、千葉、群馬、埼玉と、足を伸ばすことが多かった。都心はだいたい撮り尽くしてもう面白いネタも無くなったかな、なんて思っていました。しかし探せばまだまだ面白い街はあるものです。ここ本郷界隈は関東大震災や東京大空襲の際に火災から逃れていたため、古い木造建築が多く残されています。文豪が暮らしていた街という見方で歩くと意識高い系の観光客みたいになってしまいますが、実際に歩くと写真のような下宿屋のような木造建築を見つける楽しみがありました。

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 三業地、という言葉自体を恥ずかしながらこれまで知りませんでした。料亭、待合い、芸妓置屋が営業を許可されたエリアの事を三業地と言うのですが、それまでは神楽坂や向島、赤坂などの事を「ただの料亭街」と呼び、庶民的な赤線、青線、遊郭などと区別していました。しかし、三業地として探せばまだまだ知らない花街の多い事に驚かされます。そんな三業地の中でも大塚は、人知れずしかし現存し続ける花街の一つです。歩いて調べて初めて知ることが、都心にもまだまだ沢山あることを思い知らされました。

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 9月に入って二回ほど内房を訪れました。富津岬周辺はアクアラインの開通により多くの人が訪れるようになり、三井アウトレットパークなどの巨大施設も建ちホテル三日月も大人気。そんな中、年に一度ゴールデンウィークにしか人が来ない限定観光地である潮干狩り場に、海に続く電柱群という珍しい景色があります。ただ、最近この場所はテレビなどで紹介されるようになって以来すっかりメジャーになってしまい、しかも満潮の夕方の凪いでいる時に水面に映る電柱群という、非常に幻想的な景色がちゃんとしたアマチュアカメラマンの方々によって撮られているため、日帰りスケジュールで午前中にパッと行ってパッと撮った写真などでは全然見劣りしてしまいます。しかし、これも消えゆく景色の一つであるのは確かです。

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 6Frogus様という私の敬愛するサイトがあるのですが、そこで過去に紹介されていてずっと行きたいと思っていたスポット。岩谷観音堂です。現在では行政主導のもと保存への動きがあるようですが、以前は地元の方しかその存在を知らず、荒れ放題だったとか。その頃に行って見たかったと思うばかりですが、今でもその存在はほとんど知られる事無くひっそりと佇んでいます。

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 千葉県の房総半島には太平洋戦争末期、米軍による首都上陸に備え、様々な軍事施設が造られました。特に内房地域には今でも砲台跡や弾薬庫跡などの遺構が人知れず残っています。その一つ、山あいの畑の中に有人特攻ミサイル、桜花の発射用カタパルト跡が、草木に覆われ眠っています。幸いにも本土決戦の前に終戦を迎えたため使われる事はありませんでしたが、貴重な戦争遺跡です。

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 9月末に行った北海道旅行は衝撃の連続でした。特に帯広の街の広大なスナック街と、その荒廃ぶりは歩いてみて初めて知りました。帯広スナック街は碁盤の目に造られた街の至る所に「コ」の字、または「ニ」の字形の長屋造りという特徴的な造りになっています。特に写真のスナック長屋は全滅しており廃墟化していました。

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 本来は糠平湖湖底に残るタウシュベツ橋梁跡を見るツアーを予約したのですが、今年の夏は異常気象で雨が多かった影響もあり、例年より三ヶ月も早くダム湖の水位が上昇。タウシュベツ橋梁は湖の底に沈んでしまいました。代わりに開催されたのが廃線跡、旧士幌線のアーチ橋を巡るツアーでした。本来の目的とは変わったものの、その内容の濃さは充分過ぎるほどでした。

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 浦山ダムのダム湖周辺に点在する限界集落には過去訪れた事が有りましたが、その周囲の山々に多くの廃村が存在する事を後に知り、リベンジの意味で再訪しました。写真はその廃村の一つ、茶山集落跡です。想像以上に家屋が残されており、また秩父地方山間部特有の斜面にへばりつく集落は圧巻でした。また廃村探訪はこの時が初めてで、すっかりハマってしまう事に。

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 茶山、嶽集落を訪れた翌週、写真の栗山集落と山掴集落を訪れました。この二つの集落はさらに足場が悪く生活道は崩れかけているため、斜面をよじ登って回らなければなりません。それだけてはなく集落の中に熊の糞が転がっており、つまりガチで熊出没注意なのです。訪れるにはそれなりの装備と心の準備が必要です。しかしながらこの栗山と山掴集落の雰囲気は凄まじいものがあり、一度は行くべきだとも思います。

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 特に山掴集落は今年最も印象に残った場所と言えます。杉の生い茂る山肌、たとえ廃村でなくしても、ここに集落がある事自体あり得ない光景です。どのような人々がどのような暮らしをしていたのか、山育ちの私でも全く想像がつきません。薄暗く湿った木立の中の家々は非現実的で、生活感すら感じられませんでした。

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 今年の上旬、千葉の栄町を訪れた後時間が有ったので、津田沼の温泉銭湯鷺沼温泉に立ち寄りました。しかし運悪く臨時休業で入れず、12月になってやっとリベンジする事が出来ました。何もない住宅街の中に突然姿を現す、屋根の崩れかけたバラック建築。看板が無ければまさか銭湯だとは思いません。しかも入って見れば地元の常連しか分からないシステムや至るところが放置プレイなところ、激熱な湯船など、戸惑う事ばかり。ここまで来ると貴重な存在です。

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 その存在を初めて知ったのは関東懐旧街さんというサイトに紹介されていた記事を読んでから。ずっと気になっていた場所ですが、埼玉の真ん中というのは「どうせ何もない」という先入観から、どうしてもモチベーションが上がらないのです。しかし、行ったら行ったで面白い場所はあるものです。握津集落は都心を水害から守るための荒川改修工事で堤防が集落より内陸部側に築かれてしまい、文字通り取り残されてしまった村です。住人たちは全て堤防の内側へと引っ越し家屋は全て取り壊されてしまいましたが、広大な農地は元住民たちの手により今でも耕作されています。そのため集落の痕跡を残しつつも人の往来は有るので、農村から家屋だけが消滅したという不思議な雰囲気を醸していました。

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 今年最後の締めは大塚の立ち飲み屋『秀吉』。今年は初夏の頃から大塚に仕事で通い、この街のポテンシャルに驚かされました。新宿の隣の大久保にかつて住んでいた私にとって、池袋の隣の大塚はとても居心地の良い街でした。都市の隣には貧民街やホテル街がある。上野に鶯谷、新宿に大久保、渋谷に神泉円山町。池袋に対するホテル街は分散していますが、どこかやさぐれたこの街の雰囲気は懐かしさすら感じる。そんな大塚で一軒の立ち飲み屋さんが消えて行きました。

 そんな訳で一年を振り返ってみましたが、今年はとにかく廃墟と立飲みどきどき温泉な一年でした。都内の町歩きはほとんどせず、逆に千葉や埼玉、茨城、神奈川などへの日帰り旅が多かった。本当は関西や九州も行きたかったのですが、それはまた来年に持ち越しという事で。
 それでは、今年も一年ありがとうございました。来年もまた新たな探検を続けて参りますので、宜しくお願いいたします。皆様も良いお年を。

【日記】いよいよ明日閉店、大塚立ち飲み秀吉

 今年の秋口に発見して通い続けた立ち飲み屋の秀吉が、明日をもってとうとう閉店してしまいます。

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 よくよく調べて見たら、秀吉鶯谷本店と言うのが出て来て今年の10月に閉店してしまったそうですが、聞いて見たところ鶯谷の秀吉とは全然関係ないそうです。関係ないと言っても看板一緒だし天ぷらを出す立ち飲みだしチケット制だし。一体どう言った事情があるのか、あまり突っ込んだ質問はしませんでした。

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 450円の大盛り焼きそば。相変わらず安い! この店の韓国人の姉さん(おばちゃん)は愛想も良く楽しい方でしたが、もう会う事も無いかも知れません。まぁ来年もまた良い店との出会いがあるだろうと思いつつ、ありがとうと残して大塚秀吉を後にしました。

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 ともあれ、今年は『はるみ』の閉店に始まり『秀吉』の閉店に終わるという、居心地の良い店が次々と消えてゆくのは寂しい限りです。

 今月は荒川堤外地を訪れて以来仕事が忙しく更新は出来ませんでした。このまま今年はどこにも撮りに行かずに終わりかなって感じです。ただ大晦日、今年を振り返るダイジェスト記事をアップします。

埼玉県川越市、廃村、握津集落堤外地

 前回に引き続き荒川中流域の堤外地を訪れます。今回は塚本より上流、JR川越線を越えた左岸、握津(あくつ)集落です。

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 さっそく民家跡を発見。ここは荒川の東側になりますが、住所的には川越市の飛び地となります。

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 生け垣が農村風景の面影を残しています。ここ握津は他の堤外地同様、大正時代に始まった荒川改修工事によって、堤防の外側に取り残されてしまった集落です。その堤防も現在高さを上げるための工事がなされています。

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 堤防の上から眺めると河川敷の水田地帯に雑木林が点在しているようにしか見えませんが、歩いて見ると生活道の痕跡があちらこちらに残っています。

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 昭和の初め頃までは渡し舟の船着き場などもあり、およそ70世帯、500人もの人々が暮らしていたそうです。しかし堤防が内陸部に築かれて以降、昭和5〜6年に20〜30戸が強制移転。それ以降、平成15年までに26世帯が自費で移転。しかし平成11年の水害で全18世帯が床上浸水した事をきっかけに、平成16年には国から移転補償予算が出るようになったため、平成18年までには全世帯の移転が完了したそうです。

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 廃村となった後、全ての家屋は解体され、現在このような空き地しか残っていません。荒川改修工事は東京を水害から守るためのものだったそうで、その際幾つもの集落が堤外地として犠牲になってしまいました。どこかダム湖に沈んだ村などを思い出します。

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 左奥の高台にも住居跡があります。よくある農村風景から民家だけが消え去っています。

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 僅かに残る遺構。確かにこの場所で人々は暮らしていました。

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 木製の古い電柱。川沿いに長く広がる大宮カントリークラブのための送電線と所々僅かに掛かる電線以外は、昔のまま時が止まっています。

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 しかしここも前回紹介した塚本集落同様、農地だけはそのほぼ全域が現役で使われていました。

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 水田の所々に建つ小屋は水を汲み上げるポンプ小屋かと思われます。

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 直進すると家々を繋ぐ生活道。左手は民家に上がる私道です。

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 こちらも民家跡。かなり立派な家屋が多かったと想像出来ます。

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 集落の中心にただ一軒、公民館の跡だけが解体されずに残っています。その入り口脇に庚申塔が残っていました。

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 公民館はすでに使われておらず廃墟と化しています。

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 公民館の左手前には集落の各所から集められて来たのでしょうか、馬頭観音やお地蔵さんなどが無造作に並べられています。しかしよく見るとお地蔵さんの首が!
 いかん、趣旨が変わってくる。急に怖くなって来ましたが大丈夫。少なくとも先日行った浦山地区みたいに熊は出ないから。

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 公民館左手には防火水槽が残っています。

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 そして裏手には雑草に覆われた廃神社が。どうもこの握津集落は、下流の塚本集落とどこか違った雰囲気が漂っているように感じてしまいます。

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 集落を抜けて荒川まで出ると大宮カントリークラブ。急に近代的かつ現実的な世界へと解放されます。
 なんだこの雲は!wwwww

埼玉県さいたま市、廃村、塚本集落堤外地

 JR京浜東北線浦和駅からバスで西へ、荒川の河川敷にある廃村を訪れました。

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 秋ヶ瀬公園の北に位置するこの場所は、サイクリングロードにもなっている荒川堤防の河川敷側にあります。私は20年ほど前、川口からサイクリングで来た際ちょうどこの辺りで引き返した記憶があり、その当時はまだ集落が存在していたのですが、まさか堤防の外側に村があるなど想像もしていませんでした。

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 堤防の東側には塚本の本集落が存在します。だいぶ宅地造成も進んでいますが、かつて堤外に住んでいた人々もこちら側に引っ越されました。

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 集落は上流側の外東地区に二軒、下流側の外西地区に十数軒あったとされます。まずは外東地区から。

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 家屋は全て解体され、跡地だけが散在します。

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 水田の真ん中に昔使われていた電柱と石碑のようなもの。どうしょうも無いくらいの逆光。

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 水田に水を引くポンプ小屋と昔の電柱。この堤外地は民家こそ消滅しましたが、耕地は今でも使われています。

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 次に外西地区へ入って見ましょう。廃村の奥、川べりには浦和軟式少年野球連盟専用グランドや大宮カントリークラブのゴルフコースなどのあるので、電線が張られています。

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 所々に残る集落で使われていた電柱は、時代を感じさせます。

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 もう使われなくなってしまった自治会の掲示板。

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 耕地のほとんどが現役で使われており、この日も軽トラなどの車4台、6人ほどの方が作業などをしており、廃村の雰囲気は正直有りません。

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 集落の移転は昭和59年から始まりますが、平成11年の水害がきっかけとなり平成14年には全世帯が補償を受けた上で堤防の内側への移転を完了しました。

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 もともとこの集落は大正時代に始まった荒川改修以降堤防の外側に取り残されてしまった形となり、以降も頻繁に水害に遭っていたそうです。

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 野生化した竹藪や雑木林の中に、幾つもの民家跡が残っています。

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 外西地区の中心には薬師堂と墓地が残されており、ここの「薬師堂のマキ」は市の天然記念物に指定されています。

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 この日、二人のご老人が堂内で茶飲話をされていましたが、このあとまだ何人か集まることになっているようです。元住民による集会などは、まだこの地で行われているみたいで、住居こそ無くなったものの、暮らしはいまだこの地で続けられている事が伺えます。

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 またこの辺りには野良猫が多く住み着いています。先祖代々暮らし続けている猫かどうか分かりませんが、元住民の方々が世話されているのかも知れません。

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 道端の小さな石祠のようなものが残されています。

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 薬師堂の右手の竹藪を抜け奥の道を荒川の流れる左手に歩いて行くと、八幡社の鳥居が残っています。この鳥居は平成元年に建て替えられた物で、当時はまだこの地で暮らし続けるという思いがあったのだと想像出来ます。

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 鳥居の奥、雑木林のトンネルを抜けると、拝殿こそ無くなってしまったものの、八幡社の小さな祠が残されています。奥は御玉霊神社で右は恐らく水神宮。ただこちらは参拝される人がもう居ないのか、あまり管理されている様子が伺えませんでした。
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