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大田区羽田、羽田煉瓦堤と五十間鼻無縁仏堂

蒲田の東、羽田空港の手前は糀谷などの住宅街が続き、ちょっとした下町の雰囲気が残っています。

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京急羽田線は穴守稲荷から地下に潜り、海老取川の下を通って羽田空港へ。通る電車のほとんどが都営浅草線の車両で、たまに北総鉄道。京急の車両が来るまで何本も見送りました。

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穴守稲荷の駅は小ぢんまりとしており、大成建設が寄贈した穴守稲荷神社の鳥居があります。

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駅前商店街はなかなかにして賑わっており、下町風情を残しています。ここでも京急の車両を待つのに何本も見送った。

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多摩川に向けて歩って行くと途中首都高の高架下に、銭湯の重の湯があります。

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実に味わいのある建物。浴室には見事な富士山が描かれてますが、だいぶペンキが剥がれかけています。しかしお客さんは多く、ひっきりなしに人が出入りしていました。

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多摩川まで出ると羽田の渡し跡に突き当たります。この渡し船は江戸時代以前よりあり、江戸末期には穴守稲荷から川崎大師への観光ルートとして非常に賑わっていたそうです。

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しかし昭和14年に大師橋が完成した事で渡し船は廃止されました。その大師橋も現在真新しい吊り橋に架け替えられています。

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羽田の地は古くから洪水に悩まされて来ました。そこで内務省により多摩川改修計画が立案され、大正7年(1917年)から昭和8年(1933年)まで、16年の工期を経て堤防上に鉄筋煉瓦造りの塀が建設されました。

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かつて1632mもあったこの羽田煉瓦堤は、今でも道路沿いにずっと続いています。

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特にこの羽田第二水門の辺りには、当時の姿を残している場所があります。水門と煉瓦堤の間は船溜まりとなっており、屋形船や釣り船が停泊していました。

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右手の川側が堤外地となりますが、かつては桟橋、生簀、造船所、材木置き場、作業場などがあり、船大工、魚問屋、鍛冶屋などが住んでいたそうです。

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また、戦後の昭和20年9月、進駐軍により鈴木新田(現在の羽田空港)に住んでた住民約三千人余りが48時間以内の強制退去を命じられ、その一部がこの堤外地に移り住んだりもしました。

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そして昭和48年、高潮防潮堤として新たに外堤防が完成した事で、煉瓦堤はその役割を静かに終えました。

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煉瓦塀と煉瓦塀の間には板を差し込むような溝が。増水した時に塞ぐのでしょうが、外堤防が出来るまでは堤外地の家々は浸水します。

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羽田では中世より漁が続けられており、昭和30年代までは海苔の養殖も行われていたそうです。飛行機が飛んでますね。

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しかし高度成長期の水質汚染などにより衰退し、現在では細々と漁が続けられているものの、釣り船が主な生業となっているとか。

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多摩川沿いに海側へ。羽田空港との間を隔てる海老取川が多摩川と合流する地点、小さな祠が川に突き出しています。

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いわゆる洲に建つこの祠は五十間鼻無縁仏堂。ブロック塀や橋は平成16年に整備されたもので、それ以前は洲から階段を登って行ったと思われます。満潮時や増水の際にはお参り出来ません。意地でも飛行機を入れる。

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いつの時代から有ったかは不明だそうですが、かつてはここよりさらに海側の川面に角塔婆が一本建つのみだったとか。しかし昭和53年、護岸工事に伴い現在の位置に移設され祠も建てられました。

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無縁仏。つまり河口付近に漂着する水死体を供養するものです。関東大震災や太平洋戦争末期の空襲に際しては、かなりの数の水死体がここの洲に流れ着いて来たそうです。

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祠は今でも地元の方が花を供えたりして管理されています。どうしても飛行機を入れたがる。

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海老取川の向こうは羽田空港。右側は今年1月に全面オープンした住友不動産の複合型商業施設、羽田エアポートガーデン。中には日帰り温泉も有るのですが、料金がなんと4800円!行けるかそんなもん!

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川を渡れば羽田空港。移設された大鳥居があります。この、旧穴守稲荷神社大鳥居は移設する際に事故などが起き、よく祟りなんて言われました。

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鳥居の脇には、かつてこの地に存在した羽田鈴木町(鈴木新田)の事が書かれています。まぁ、飛行場と言えば強制退去の話はつきものですね。

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以上です。あぁ、飛行機で遠くに行きたい。

【日記】行田・湯本天然温泉、茂美の湯

先月、徹夜で突貫現場などありまして体がバキバキでして、今回たまたま仕事が早く終わったので、近場の日帰り温泉にでも行こうかと思いました。

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近場と言っても埼玉県中部、高崎線で熊谷の手前、吹上で下車。そこから行田市方面工業団地行きのバスで7分、産業道路下車。さらに徒歩10分。途中、酒蔵の川端酒造なんかがあります。この辺は地下水なども豊富なんでしょうか。

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忍(おし)川のほとり、行田・湯本天然温泉、茂美の湯があります。近くには埼玉(さきたま)古墳群などもあり、行田市駅方面には映画「のぼうの城」でも有名な忍城(おしじょう)跡も。行田市はいずれ改めて散策してみたいです。

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ここは基本温泉旅館ですが、大衆演劇場も併設されており、昭和の健康ランド的な雰囲気があります。もちろん宴会場もあり団体客あってこそ。

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内部の写真は公式サイトの画像を使わせて頂きます。こちらは循環濾過併用の源泉掛け流しの内湯。カランは内湯に7つ、露天に6つと、浴槽の面積に対してちょっと物足りない感じが。

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ただ露天は全て重曹泉の100%源泉掛け流しとの事ですが、動力揚湯(ポンプ)とは言え毎分400リットルと言う湧出量は多すぎる。大型施設でも100〜と言ったところ。これなら内湯の他に露天浴槽が6つもあり、さらに壺湯が3つ、全て源泉100%掛け流しと言うのも偽り無しですね。源泉を人工炭酸で炭酸泉に加工している浴槽もあり、なかなか面白い。

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お湯は薄黄色で無味。塩素臭が若干するものの、それ以上に枯れ葉臭と言うか、個人的には癒される香り。浴感はサラサラながらも纏わりつくような感じ。源泉温度が43度と低めのため、冬季は基本40度以下のぬる湯。特にこちらの広い浴槽は36度と、かなり低くなっています。元々ボイラーが無いのかも知れませんが。

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ガツンとは来ませんが、長湯しているとホカホカになり、ちょっと気に入りました。美人の湯と銘打っているだけに湯上がりは驚くほど肌がスベスベ。

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締めは大宮駅東口駅前の大衆酒場いづみや。ここの肉少なめ肉豆腐(250円)は毎回注文しちゃいます。しかし、飲んで帰って寝るまでずっと指先がスベスベしてて、温泉の実力を感じました。

行田・湯本天然温泉茂美の湯
所在地 〒361-0032 埼玉県行田市佐間1456-1
電話番号  048-555-2230
営業時間  9:00~23:00(最終入館22:00)
入館料 平日 750円 土日祝日 850円 JAF会員は50円引き
定休日  年中無休(臨時休業あり)

神奈川県横須賀市、千代ヶ崎砲台跡

さて、走水砲台と川間ドックの後は観音崎の南の岬にある千代ヶ崎砲台跡に行ってみます。

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川間ドックの少し先、急な坂道を延々と登って行くと千代ヶ崎砲台に辿りつきます。こちらは走水砲台に比べると全然高い位置にあります。土曜日曜祝日のみの公開となりますが、ボランティアガイドによる親切な案内と説明もあります。いずれも無料ですが、ガイドをしてもらうと地下内部まで入らせてもらえます。

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千代ヶ崎砲台は明治28年(1895年)完成。こちらは塁道という通路。左手の盛り土された部分の向こう側が砲台となります。明治大正期の砲台は基本的には石積みで、ところどころに煉瓦が使われています。ちなみに東京湾の砲台に使われている石材は、対岸の富津市鋸山で産出された房州石と言われています。

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ここは終戦まで使われていましたが、戦後、昭和35年(1969年)より海上自衛隊の通信施設、千代ヶ崎送信所として利用されてました。左手のコンクリートの壁面は自衛隊施設時代の名残り。ちなみにコンクリートは幕末より日本に入って来ていましたが、一般的に建築で使われるようになったのは関東大震災後と言われています。

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塁道から各砲座までは地下通路で繋がっています。千代ヶ崎送信所は2013年に閉鎖され、2016年に横須賀市管轄となります。以降、埋め立てられた砲座を掘り返すなどの発掘作業や施設整備を経て、2021年に一般公開されるようになりました。

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濾過池(奥)と沈殿池(手前)。こちらでは雨水を集めて濾過し、飲料水としていました。

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明治20年代以降の建築なので、ここの煉瓦はオランダ積み(イギリス式)となります。入り口付近の色が黒っぽい煉瓦は焼き過ぎ煉瓦と言って、焼き過ぎる事で撥水効果を出しているとか。

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雨水が当たる所は黒ずんだ焼き過ぎ煉瓦。煉瓦建築も知れば知るほど奥が深い。

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塁道に面しているのは兵員詰所や倉庫。火薬はその奥の地下部分になります。

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兵員詰所を内部から見たところ。当時の鉄扉や窓枠などの金属部品は、戦後の混乱期に悉く盗まれてしまったとか。左下の小さな穴は換気口。

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部屋の一番奥には排気口があります。

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排気口の地上部分はコンクリートで埋められてました。

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こちらが詰所の奥にある火薬庫。

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火気厳禁なのでランプは部屋の外にあり、明かり取りから採光する形。

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火薬庫の中には地上の砲座に火薬を揚げる縦穴が2箇所あります。

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火薬庫の奥の階段を昇り砲座に出て来ました。

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千代ヶ崎砲台には3箇所の砲台があり、それぞれに28ミリ榴弾砲が2門づつ、計6門の大砲がありました。

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砲台は土塁に囲まれたすり鉢状となっています。これは敵艦に発見されないためで、逆に砲撃する際は観測所から角度やタイミングが指示されます。

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昔の潜水艦映画などで見るような、通信するための管。これで観測所からの指示が届きます。ガイドさんの説明を聞きながら巡ると砲台の構造が良く理解出来て面白いです。

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これが砲座の一つを上から見たところ。東京湾要塞の砲台は、その大部分が三浦半島に集中しています。それはひとつに東京湾の入り口である浦賀水道が、最も対岸との距離が近い事。もうひとつは千葉県側は遠浅で水深が浅いため、艦船はどうしても三浦半島の東海岸に沿って航行しなければならない事。

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一度埋まっていたこれらの砲座を掘り出したと言うのだから、ほぼ発掘作業ですね。また当時の大砲は飛距離も無く命中率も低いため、浦賀周辺以外に造る意味があまり無かったそうです。

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こちらは先程まで歩いていた塁道を土塁の上から見たところ。この千代ヶ崎砲台は他の各砲台と同様、結局火を噴く事はありませんでした。それもそのはず、大艦隊で東京湾に押し寄せたところで、浦賀水道を抜けるには一直線に並ぶしか無く、いい標的となってしまうのでわざわざ東京湾から上陸しようとは思いません。実際、太平洋戦争末期、アメリカが計画した首都制圧作戦(コロネット作戦)では相模湾と九十九里浜に上陸する予定でした。

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もちろん抑止力としての役目は果たしましたが、それ以前に徳川家康が幕府を開く地に江戸を選んだ時点で、天然の要塞は出来上がっていたとも言えます。

神奈川県横須賀市、走水砲台跡と川間ドック

横須賀市の南、以前訪れた観音崎砲台跡の近くにある走水砲台跡と川間ドック、千代ヶ崎砲台跡に行ってまいりました。

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JR横須賀駅より観音崎行きのバスに乗って行きます。横須賀の海上自衛隊基地には輸送艇くにさきが停泊中でした。

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観音崎の手前、西側の入江は走水漁港。乗り合いの釣り船宿が多く、釣り師たちで賑わっています。

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走水砲台跡は漁港の横須賀寄り、西側の小高い岬に造られています。当時の階段が急過ぎるため、坂道を迂回して登ります。

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砲台は全部で四基。右翼側(海に向かって右)より第一から第四まで並んでいます。こちらは第一砲座。

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こちらが当初設置されていた27cm 加農(カノン)砲です。

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第一砲座と第二砲座の間には地下火薬庫があります。この走水砲台は明治18年(1886年)、陸軍によって建造されました。時に明治政府が内閣制度を創設し、伊藤弘文が初代首相に選ばれた年です。

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火薬庫の中は煉瓦壁に除湿のための漆喰が塗られています。この火薬庫の左右に縦穴があり、第一、第二、それぞれの砲台へと砲弾と火薬が吊り上げられていきます。これよりちょっと歴史のおさらいをして行きます。

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火薬庫の上には司令官が指揮する台があります。東京湾の要塞化は幕末の文化7年(1810年)、会津藩が相州側の江戸湾警備を命ぜられた辺りから始まります。会津藩の駐屯は10年ほどで終了し、文政4年(1821年)からは浦賀奉行所の管理となります。

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こちらが右翼側から二番目の第二砲座。会津藩はまず観音崎、久里浜、城ヶ島に砲台と陣屋を築きました。この時代の砲台は対外国船と言うより薩長を警戒していたのかもしれません。

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右翼側の第一第二砲座と、左翼側の第三第四砲座の間には、兵士の詰所があります。嘉永6年(1853年)ペリー来航。これを契機に品川台場が建設され、以降東京湾の要塞化は加速して行きます。

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こちらが詰所内部。地下になるので当然薄暗いです。ペリー来航から14年後の慶応3年(1968年)、明治新政府の樹立により東京湾要塞は明治新政府による管轄となりました。

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鉄筋が残っている何かの台座。こちらも遺構になるので、ちゃんと残されています。東に隣接する観音崎砲台は、明治13年から20年代にかけ、江戸末期の台場跡に新たに砲台基地を随時建設。ちょうどこの走水砲台と同時期になります。ちなみに横須賀沖の猿島砲台は前年の明治17年竣工。

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こちらは第三砲座。周辺の窪みは砲弾置き場です。走水砲台はその後関東大震災の被害を受け復旧工事を受けたものの昭和9年除籍。しかしその後横須賀陸軍重砲兵学校の演習用として9cm速射加農砲4門が移設され、終戦時まで残っていたそうです。

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第三砲座と第四砲座の間にある火薬庫。こちらは閉まっていました。

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最後に第四砲座。最近まで走水砲台跡は非公開でしたが、現在条件付きで公開されています。土・日・祝 はガイドなしで自由に見学可能ですが平日はガイドを予約する必要があります。

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一旦浦賀へ。浦賀ドックも一度見学したいのですが、定員予約制で第二第四日曜日しか見学出来ません。こちらは浦賀ドックに水を供給するための水道トンネル。明治33年建造。

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浦賀ドックの南にある川間ドック。こちらは当時、東京石川島造船所の取締役会長だった渋沢栄一氏によって、明治31年(1898年)に完成した煉瓦積みドライドックです。

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川間ドックは現在マリーナの敷地内となっております。浦賀ドック(明治32年建造)は海水を抜いた状態で保存されているので底部まで見ることができますが、こちらは水面上の部分のみが遠目に見えるのみとなっております。
次回、千代ヶ崎砲台に続きます。

群馬県富岡市(2)、富岡の街並み

さて、富岡の市内を巡って行きます。

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富岡にはまず高崎駅0番ホームより下仁田行きの上信電鉄に揺られて行きました。

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車両は昭和56年新潟鉄工製の6000系がまだ現役で走っています。

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長い直線を高速走行すると激しく横揺れ。実に懐かしい感覚です。

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さすが世界遺産登録されただけあって、駅は綺麗に建て替えられています。

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駅前には富岡倉庫があります。右手の赤煉瓦造りは1号倉庫で明治34年建造。

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こちらの2号倉庫は大谷石造りで大正12年建造。この倉庫の向こう側に上信電鉄上州富岡駅があり、いわゆる上信電鉄の貨物輸送のための倉庫で、かつては線路が横付けされていたと思われます。

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2号倉庫の先に繋がっているのは明治33年建造、木造土壁造りの3号倉庫。

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3号倉庫の向かいには明治36年建造の乾燥場があります。富岡は駅前から明治大正期の建造物が出迎えてくれます。

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二階の乾燥場に繭を上げるベルトコンベア。

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さて、富岡倉庫から南へ歩いて行きます。東西に走る下仁田街道の手前、路地にあるのが神部医院。

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病院ですがどう見ても料亭のような造り。かつてこの界隈は花町として栄えていた時期もあるので、その名残りかも知れません。

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下仁田街道に出て西へ。少し歩くと左手に阪本耳鼻咽喉科医院が。商家の隣に増築された建物は大正建築でしょうか、詳細は不明。

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製糸場西通りを左、南へ歩きます。この先は富岡製糸場の裏門に続きます。

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ひさしがひしゃげてますが、この二階の欄干は料亭か何かだった事を思わせます。最大38名の芸者が置屋に席を置い ていたとされていますが、昭和58年頃には消えてしまったとか。

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右に曲がると大正湯と言う銭湯があります。臨時休業と書かれてましたが昼過ぎには煙突から煙が立ち昇っていたので、午後3時には開店していたのかもしれません。次回は入りたいところ。

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下仁田街道の南を併走する銀座通りを東に歩きます。こちらは料亭でしょうか。明治大正から昭和中期まで製糸業で栄えた富岡ですから、当然接待などに使われた料亭も多かった事でしょう。

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折れてます。いつ倒壊してもおかしくない。富岡の街は2011年の東日本大地震の後、2014年に豪雪被害を受けてます。度重なる災害で半壊した家屋も多かった事でしょう。

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花街の名残りとしてスナックなども点在しています。かつては遊廓から戦後の赤線まであったそうですが、いかんせん群馬県は廃娼県だったので資料が全く残ってないそうです。

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二階に欄干があるだけで花街の名残りではと思ってしまいますが、なんとも言えません。

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富士屋食堂。数年前までは営業してたみたいなんですが、訪れた時には既に廃業。ここで昼メシ食いたかった。

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銀座通りを東に進んで行くと右手に狭い路地が。この路地は二町通りと言って現在寂れたスナック街となっています。赤線とか有ったのはこの辺でしょうか。

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現役のスナックです。夜は夜で多少賑やかなのかもしれません。

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ふと目に留まった民家ですが、この六角形の窓はただの民家では無さそう。

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ニ町通りの奥にある廃墟スナック。左手の軒が崩れており、危険物件と言う事で行政から解体するよう言われているみたいです。

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御金処。いわゆる質屋さんですが、かつては左側にも建物があり相当狭い路地となっていたようです。後ろめたさから人目を忍んで狭い路地へスッと消えてゆく、みたいな。

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銀座通りを更に歩くと右手が三町通りと言う路地になります。こちらは現役の割烹料理店よろづや。こちらも三業地(或いはニ業地)の名残りでしょうか。

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銀座通りの南、富岡製糸場の正門から東へ伸びる城町通りに出たところに建つ民家に「梅本」の看板が。こう言った看板、元は置き屋だったのではと考えられます。この向かいにかつて昭和6年(1931年)に消防団の詰所として建てられた江原時計店の建物があったのですが、残念ながらすでに解体されていました。

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町中の喫煙所。富岡市は分煙運動を進めており、市内のあちこちに灰皿が設置されています。私個人的な話になりますが、喫煙者としては頭ごなしに禁煙と言われないだけでも有難い限り。

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最後に衣料品店のいりやま。奥に赤煉瓦造りの倉庫もあります。
富岡製糸場は衰退の末に閉鎖となりましたが、街はまだまだ栄えているようです。元々は企業城下町だった部分はありますが、これからは観光産業で賑やかになっていって欲しいです。
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