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栃木県佐野市葛生、石灰石鉱山と廃線跡

前回吉水駅を訪れた続きとして、今回は東武佐野線の終点である葛生駅に行って来ました。折しも台風接近の最中、一瞬だけ集中豪雨に見舞われ靴下びっちゃびちゃで巡ります。

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かつてセメント工業の最盛期は出稼ぎ労働者も多く集まり多くの人で賑わったと言われる葛生の街。現在では1時間に1本、2両編成のローカル線がワンマン運転で折り返すのみ。

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その葛生駅構内はセメントの原材料を積んだ貨物列車のターミナルでした。現在ではその敷地の半分程度が太陽光発電施設として活用されています。

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葛生駅からは貨物専用線である東武会沢線、大叶線、日鉄鉱業羽鶴線の3路線が伸び、それぞれ沿線の精製プラントからセメントや石灰、ドロマイトなどを運び出していました。

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葛生駅からほど近く、貸家地帯の脇を通る廃線跡には、架線が辛うじて残っています。セメント列車はそのまま東武佐野線、伊勢崎線を通り業平橋、現在スカイツリーの聳える貨物ターミナルまで走っていましたが、東武鉄道の貨物事業撤退を受けて平成9年年(1997)廃止されました。

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大叶鉱山への谷を見下ろす嘉多山公園には、東武B3形30号機関車が保存されています。こちらの機関車はイギリスのピーコック社製で大正3年(1914)より昭和41年(1966)まで東武佐野線で活躍していました。ちなみに会沢線ではB3形31号機が活躍しており、この30号機が会沢線でも運用されていたかは不明。

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最初に見えてくるプラントは住友大阪セメント。この工場にも引き込み線がありましたが、ここの左手から奥の唐沢鉱山に向かって東武会沢線が走っていました。ちなみに途中に存在した上白石貨物駅から先の会沢線と大叶線は昭和61年(1986)に廃止。

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東武の貨物線とは別に、住友大阪セメント専用線のガソリンカーもそれぞれの鉱山で走っていました。特に唐沢鉱山から会沢線と並走する専用線では、最盛期には朝7時から夜の7時まで50往復もしていたとか。

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ただこう言った専用線は精製されたセメントを運ぶ東武の貨物列車とは違い、採掘された石灰石をふもとの精製工場まで運ぶと言う役割を担っていました。

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東武会沢線及び大叶線と分岐して西へ向かうこの廃線跡は、日鉄鉱業羽鶴線です。こちらは事業所が開設された昭和26年(1951)に開通し、平成3年(1991)に廃止。

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葛生の貨物専用線は非常に複雑で、東武の貨物線の他に各鉱山会社の専用鉄道が合流分岐しながら採石場と精製工場を結んでいました。

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このような橋梁跡を見ると廃線跡であると実感できます。石灰石は現在、唯一日本で国内自給可能な鉱物であり、その生産量はアメリカ、中国に次ぐ第3位だそうです。この狭い国土で世界3位と言うのが驚きで、海底が隆起して出来た島国故にと言う事でしょうか。

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廃線跡のほとんどが道路になっていたりして痕跡を残していませんが、廃線跡の土地の所有権はどうなっているのか。とは言えその辺は大雑把で近隣住民が家庭菜園をしたりと、長閑な光景も見受けられます。

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こちらは村樫石灰工業の工場。ちょうどこの手前をかつての大叶線が走っていました。

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大叶線が走っていた谷の奥には吉澤石灰工業の工場が見えます。この吉澤石灰工業は明治6年(1873)、葛生で初めて本格的に石灰石採掘を始めた老舗で、広大な採石場の地下を今でもバッテリーカーによる長大な鉄路やベルトコンベアで結んでいます。

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踏み切り、と言うか線路を渡る道の名残り。今でこそ産出量は減っていますが、日本の高度成長期の建設業を支えていたのは間違いありません。

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しかし高速道路やバイパスの整備などによりトラック輸送に押され、鉄道貨物は衰退して行きました。奥に写る団地のような建物は吉澤石灰工業の社宅。

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こちらは佐野市葛生化石館に展示されている石灰石。簡単に言えば、石灰石は精製工場で細かく砕かれ高温で焼かれてセメントになります。そのセメントに砂利や砂、水が加えられた物がコンクリート。またこの化石館には全国で産出される鉱物なども展示されています。

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今回のランチは激渋中華、その名も来来軒さん。中華と言ってもメニューはタンメン、カレーライス、野菜炒め、焼きそば、あとは酒のみ! 86歳のお婆ちゃんが一人で切り盛りされてます。

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待っている間、コーヒーいるかい? クッキーいるかい? 煎餅食べな、と次々出されます。やがて出て来たタンメンは超野菜マシマシ。さらに食べてる最中に、カボチャいるかい?
なんでこう、田舎のお婆ちゃんって食わそうとするのか!wwww
まぁ美味しくいただきましたが、お腹パンパンです。さらに帰り際、追い討ちを掛けるようにコレ持ってきな、と、柿ピーひと袋wwww
後継者もおらず、あと何年続けられているのか。また葛生に来た時は寄って来なさい、生きとるか分からんけど。と、お婆ちゃん。笑えませんて。

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この来来軒さんは昭和41年創業。当時は出稼ぎの人も多く非常に賑わっていたそうです。そう考えれば今月頭に訪れた吉水駅周辺の貸家地帯も鉱山関係の労働者が多かったのではないかと想像できます。

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本当は露天掘りの採石場などの写真も撮りに行きたかったのですが、ずっと小雨も降っていたしタクシーでないと行けないしで断念しました。また訪れる機会があれば、もっと掘り下げていきたいと思います。

栃木県佐野市吉水、貸家だらけの住宅街と温泉スタンド

佐野市は2019年4月に軽く佐野駅前の廃スナック街を散策して以来です。

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今回訪れたのは佐野駅から東武佐野線で北へ二つ目、終点の葛生との中間地点に当たる吉水駅。かつては駅舎も有ったようですが、現在では交通系ICをタッチするポールがあるのみの無人駅です。

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駅の東側は山肌の迫る農村地帯。いわゆる関東平野の端っこです。

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西側には碁盤の目に整備された住宅街が広がっていますが、駅前には何もありません。

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まずは線路沿いに北、葛生方面へ。一般的な一戸建て住宅も多い中、さっそく貸家地帯が見えて来ます。分譲住宅のほとんどが二階建てなのに対し、高度成長期に建てられたと思われる貸家地帯は平屋建てです。

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こちらも貸家地帯。だいたい6棟から12棟ほどの木造平屋建てが集まり、一つの貸家地帯が形成されています。

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ただこの吉水駅西側の住宅街が異質なのは、そんな貸家地帯が20箇所以上も存在する事。

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似たような外壁ですが、それぞれ別の貸家グループなのです。

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これらの物件は大手不動産検索サイトには出て来ません。辛うじて佐野市に本社があり北関東一帯に支店を展開する関東ハウジングのサイトで木造平屋建ての物件を散見出来る程度。

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それによるとだいたい3LDKバス・トイレ別で3〜5万円台。いわゆるファミリータイプの物件。ただ築年数は表記されていません。築40年以下は表記されていますが、築年数が古すぎる場合は問い合わせなければならないのでしょうか。

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とりあえず猫たちに癒されます。

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恐らく野良の家族ですね。まだちっちゃいからか警戒心がゆるい。

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この辺りは葛生の山々から流れるいく筋もの川が集まり、扇状地のような地形を形成しています。

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周囲の山々は石灰石などが採掘される鉱山が多く、扇状地の中央付近は砂礫など水捌けの良い土地だと想像されます。なので稲作には向いておらず、早くから宅地開発が始まったのではないかと思われます。

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吉水駅から西に外れながら南へ。今回はすいません、ちょっと情報不足でして、今一度郷土資料館など訪れて追加調査したいところです。いまだ佐野市の中心街は歩いてないですし。

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ただ残る謎が、なぜこんなにも貸家地帯が乱立しているかと言う疑問です。ちなみにガスはプロパン。物件によっては汲み取り式便所も現存しています。

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都心部と違い地方における昭和30〜40年代の市営住宅は、例えば以前訪れた千葉の国府関団地のような木造平屋建てのタイプも多く存在しました。しかし佐野市の市営住宅はここよりさらに北の、新吉水町に平屋建て市営住宅が存在するのみ。

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あとは社宅と言う可能性。もしそうだとしても近隣に工業地帯があるわけでもなく、だとすると北に位置する葛生の鉱山地帯で働く人々の社宅である可能性です。この物件などはトイレから換気筒が伸びており、もしかしたら汲み取り式のままかも知れません。

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葛生には明治6年(1873)、吉澤石灰工業が石灰の採掘を始め、後にドロマイト鉱も採掘されるようになり、戦後の昭和26年(1951)には日鉄鉱業羽鶴事業所も開設されています。

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しかし葛生の鉱山までは北に10キロ弱。明治22年すでに東武佐野線の前身である馬車鉄道も開通していましたが、高度成長期と言え鉱山住宅をこんな離れた場所に建てるとも考えにくい。そもそも葛生の石灰産業は後の奥多摩や秩父に押されて衰退しています。

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この辺りは他に目立った産業も無く、北関東でよく見られる毛織物産業も特に発展しなかったようです。

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これらの貸家は間取りから言って高度成長期以降の核家族向けと思われます。周囲に多く建つ二階建て住宅と明らかに家族構成が違います。

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つまりこれらの貸家にはさらに地方から移住して来た人々が暮らしていたのではと想像出来ます。

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では彼らは何を生業としていたのか。もちろん都心までは通えませんし、佐野市にそんな雇用があるとも考えにくい。

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と、ダラダラと検証と想像を巡らせて来ましたが、もう貸家地帯の撮影も飽きて来た。

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これまで掲載して来た写真は全て別の建物群です。今回巡った所だけでも18箇所あります。

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解体されて一軒しか残っていない場所はパスして来たので、本当にこの街は貸家だらけなのです。

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一通り回ったところで佐野ラーメン。葛生から佐野市内に抜ける東産業道路沿いの匠屋さんに入りました。

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佐野ラーメンって普通の醤油ラーメンだしな、と、たかを括っていたら、これがまた美味い!

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ラーメン屋さんの向かいには道の駅があり、その裏手に温泉スタンドなる物があります。

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源泉名は田沼温泉。無料ですが一人一回400リットルまで。一般的な浴槽で約200リットルなので充分ですね。

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温泉と言っても源泉温度25度の弱アルカリ性単純温泉。浴槽に入れて追い焚きするわけですね。

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道の駅「どまんなかたぬま」には足湯が併設されています。田沼温泉は温泉スタンドとこの足湯しかありません。少し南に行った所に日帰り入浴施設もありますが、別の源泉となります。

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足湯で疲れを癒します。消毒の塩素臭がキツいですがお湯は多少のヌメリ感もあり、浴後は足の裏が多少ピリピリするくらい、なかなかの力強さを感じました。

千葉県船橋市、駅周辺の繁華街と花生食堂

船橋には2016年2月、赤線地帯の海神新地跡やバラック地帯の都疎浜地区などを巡りましたが、今回たまたま船橋に行く機会があったので駅周辺を巡りました。

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JR船橋駅の北口はイトーヨーカドーと、東武野田線(あーばんぱーくらいん)の起点駅だけあって東武デパート。南口には西武デパートがあったのですが、ご覧の通り解体工事が始まっています。船橋は千葉県の人口に於いて千葉市に続く第二位の大都市です。

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JR船橋駅から旧西武デパート跡を挟んで南には、京成船橋駅があります。JR総武線は小岩まで北西へ進み、左へカーブして南西に進み秋葉原へ。京成電鉄はさらに北西へと進み、京成高砂でカーブして南西に進んで日暮里、上野、あるいは都営浅草線へ。ここから京成線はずっと内陸側を進むので、乗り換え可能な最後の駅となります。

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京成船橋駅の南側には仲通り商店街があり、この辺りが飲み屋街の中心街となります。

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ただ繁華街としては広く、どの通りに行っても飲み屋さんだらけと言った印象です。

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街はまだ再開発の波に飲まれておらず、古い建物や狭い路地がたくさん残っています。さすが千葉、と言うかさすが京成沿線と言った感じです。

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良さげな飲み屋さんだらけで一度夜に飲み歩きたい。ただ遠いんですよね。亀戸があって小岩があって市川があって、さらにその先ですから。二駅先はもう津田沼ですし。

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なんともそそる路地裏。たまりません。戦前から戦時中は軍都習志野が近い事もあって陸軍関係者の歓楽街としても栄えた船橋。空襲から逃れた事もあり戦後は闇市だらけになったとか。

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たまたま昼間からやってる大衆酒場「一平」を発見。さっそく入ってみます。

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店は奥まで長いコの字カウンター。とにかくメニューが豊富でしかも安い。

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とりあえず牛モツ煮と生。このモツ煮が感動的に美味い! 多くの部位がドロドロになるまで煮込まれており味の深みが凄い。個人的に今まで食べた煮込みの中でトップ3に入ります。

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仲通り商店街を抜けた先に一軒佇んでいるのは大衆食堂の「花生食堂」。

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メニューは非常にシンプル。玉子定食とか野菜定食とか、肉無し魚無しってどんなのか一度頼んでみたい。

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お婆ちゃんが一人で切り盛りされています。頼んだのは親子丼と瓶ビール。昼間から食堂でビール、最高です。

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と思ったらカウンターに座っている地元のご老人御三方も全員瓶ビール。なんて素敵な空間なんでしょう。

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さらに南西の街外れに行っても路地裏飲食店街があります。

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ただ、こちらは東側が丸々再開発でマンションが建ってしまっていました。

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さて、京成船橋南口の南西側に歩いて行きます。この辺り、微妙に風俗の匂いもしますが、船橋には基本的に店舗型風俗店はほとんどなく派遣型ばかりのようです。かつては赤線も有った街なのですが、現在の歓楽街としてはキャバやパブぐらい。

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この辺は以前訪れた所。特に変わりなくって感じです。青線だった説もありますが、どちらかと言えばバーと言った感じ。

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さらに南へ歩けば千葉街道。通り沿いのビルは結構古く、これもいつまで残っているか。

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千葉街道よりさらに南、つまり海側へ行くと場末のスナック的な店がちらほら。

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6年半ぶりに歩いて見ましたが、かつての赤線地帯である海神新地跡のカフェー建築は健在でした。

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当時のコンクリート製街灯も健在。
今回船橋は再訪でしたが、花生食堂と大衆酒場の一平は収穫でした。飲み目的でまた来たいと思います。

川崎市麻生区、現代に残る廃仏毀釈の残滓

前回、廃仏毀釈をテーマに取り上げようと秩父の山奥まで足を運んだのに空振りに終わり、消化不良だったので改めて調べ、その物証を求めて川崎市麻生区に来ました。

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小田急新百合ヶ丘駅より千代ヶ丘行きのバスに乗り千代ヶ丘三丁目で下車。丘の上はニュータウンと言うより、古くから存在した農村と言った雰囲気も残っています。

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北東へ少し歩くと禅宗の香林寺と言う立派なお寺があります。広大な墓地に囲まれ、石仏の並ぶ境内の先には五重塔まで。

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その敷地の外周部に、首を斬られた石仏が並べられていました。これらの石仏は明治8年に廃仏毀釈によって廃寺となった真言宗延命院の跡地を、昭和38年に宅地造成した際出土した物だそうです。

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改めて廃仏毀釈に触れて行きたいと思いますが、まずはその引き金となった明治政府による神仏分離政策から触れて行きます。

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仏教国教化を国策としていた徳川幕府に対し、明治新政府は国民の檀家制度などによる宗教負担を軽減させるとして神道国教化を目指しました。そのためにはまず、それまでごっちゃだった神社と仏閣を分ける必要がありました。それにしてもこの香林寺、昭和から平成にかけてどんどん豪華になって行きます。周辺の土地開発によって土地を売ったりしたからでしょうか。

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次に訪れたのは小田急多摩線の五月台駅。谷を渡る高架線の下に、お地蔵様や石仏が並んでいます。これは廃寺となった古沢村の真言宗福正寺の物と考えられています。ちなみに神道国教化はキリスト教を布教しようとする欧州列強の反発を買い、結局その政策は放棄されました。同時に神道は宗教とは別と言う認識も広がって行きます。

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神仏分離政策は決して仏教に対する宗教排斥でもなんでもなかったと言います。しかしそこから自然発生的に、あるいは糸を引いていた人物がいるのかもしれませんが、廃仏毀釈運動が全国的に広がって行きました。

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神仏分離が一斉に廃仏毀釈に至った原因は、明治維新後の国情不安や、旧幕府時代の身分特権に安住し腐敗していった僧侶への反感、土地や釣鐘などの寺院財産を狙った一部の地方官や宮司などによる扇動など、様々な時代背景によるものと考えられています。当時の仏教は江戸初期の寺請制度により全国民がどこかしらの寺の檀家となり、仏教界は安定した収入を得てさらに寺領も与えられました。反面神社はと言えば収入も少なく地位を失っていきます。

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次に訪れたのは小田急多摩線の黒川駅の北西、黒川谷戸と呼ばれる田園耕作地帯です。今でこそベッドタウンのイメージが強い多摩地区ですが、鎌倉街道も近く古くから人々の暮らす農村地帯でした。

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ここは昔寺の谷戸とも呼ばれ、北東側の丘陵に金剛寺と言う寺が存在しました。この金剛寺もまた廃仏毀釈によって廃寺となりました。当時の廃仏毀釈運動では暴徒化した人々が石仏を破壊する他、仏像、経巻、仏具の焼却や破却に至ったそうです。その際、多くの美術的価値の高い仏像や国宝級の物が、破壊されたり焼却されたり二束三文で海外に売られたりして失われてしまいました。まさに伝統文化の破壊です。

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取ってつけた様な簡素な鳥居の脇には、首を斬られた石仏が並んでいます。江戸末期頃から水戸藩などで広まった儒教思想、さらに国学をもとに鎌倉時代よりも前の日本古来の宗教観や文化を復活させようと言う動きが始まり、後の尊王論や廃仏に繋がって行きます。

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ちなみに廃仏毀釈運動が最も激しかったのは明治新政府、薩摩のお膝元である鹿児島県で、当時1066あった寺院の全てが廃寺となり、県内の僧侶2964人が還俗(俗世に還る)、或いは神主へ転職させられたとされています。その行動は苛烈を極め、仏閣の焼き討ちまであったとか。そのため現在でも鹿児島県は全国で最も寺の数が少ないそうです。

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鳥居の奥には毘沙門堂が残っており、旧金剛寺の檀家の子孫や地元の方々が手厚く管理されているそうです。金剛寺もそうですが川崎市麻生区で廃寺となった寺院の中で最も多かったのは真言宗、つまり密教系のお寺だそうです。これは修験道や密教が明治の近代化に反するとされていた事からだそうで、そのため全国的に見ても山岳信仰と仏教が習合した修験道のお寺では、修験禁止令が出されて仏教要素が排され多くが神社となり、真言宗に属する神宮寺は悉く神宮神社となりました。例えば榛名神社、三峰神社、出羽三山神社、戸隠神社、白山神社、熊野神社など、それ以前は修験道のお寺でした。

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奥の斜面には幾つかの墓石も建っています。廃仏毀釈運動は明治初期の一時的な集団心理による狂気であり、その後仏教は復興の道を辿ることとなります。

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最後に柿生の東を流れる真福寺川沿いにあった真福寺跡。この寺は真言宗王禅寺の末寺でしたが明治6年、廃仏毀釈運動によって廃寺とされてしまいました。しかしその真福寺と言う名前は今でも河川や小学校、公園、町内会などの名前に残されています。

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寺跡に並ぶお地蔵さんは、旧王禅寺村真福寺谷の鎮守である白山神社から移設されたもので、この白山神社も神仏混淆の時代より真福寺と深く関わっていた事が伺えます。

ここまで廃仏毀釈運動を追って来ましたが、もしこの運動が自然発生的な集団ヒステリーなどではなく、薩長による明治新政府の画策だとしたら。国のトップを将軍から天皇に切り替えるわけだから、まず天皇の神格化(尊王論)が必要となります。つまり神道を復興させるために、仏教国家だった幕藩体制下の世を文字通り一度破壊し、文明開花を為す必要があります。これは武家社会の破壊と同時に行われたのかも知れません。いずれにしても廃仏毀釈は、急速な近代化の犠牲であったと言えるのではないでしょうか。

埼玉県小鹿野町、両神小学校大谷分校跡

今から5年前の2017年、一度訪れた両神小学校大谷分校跡に再訪しました。

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小鹿野から白井差口行きの町営バスに揺られて小森川沿いを登り、前回訪れた時と同様大谷橋で下車。山間部は霧が立ち込め小雨が降り続いています。

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5年前のGWは清々しい天気でした。

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定点観測しても大して変わって無いのですが、ついつい同じ場所で撮ってしまう。

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秩父地方は山深いので、民家へのアプローチも強烈です。まぁ私の実家も似たようなものですが。

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石垣と階段が素晴らしい。足腰の弱くなった高齢者にとっては大変かも知れませんが、こう言った山村に暮らすご老人は大抵足腰が強靭に出来ているんですよね。

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大谷橋バス停は大谷橋を渡り上流に向かって右手(左岸)ですが、目的地の廃校跡があるのは下流の右岸。この辺りは大谷集落と言います。

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こちらは2017年5月に撮影した両神小学校大谷分校跡。昭和46年廃校。以後、林間学校などに利用されており、校庭にはバーベキュー施設も完備されております。

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こちらが現在、2022年7月の状態。いまだちゃんと利用されているようで、外壁のペンキが綺麗に塗り直されています。

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2017年5月、運動場から。傾斜地に建っているので、裏に回ると二階が玄関になっています。

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現在の様子。前回同様、玄関前には真新しい靴などが置かれており、今でもちゃんと管理されている様子。

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校庭を挟んだ反対側斜面からの俯瞰。2017年5月。

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こちらは2022年7月撮影。なぜ同じ場所をまた訪れたかと言うと、前回訪れてからずっと引っかかっていた事があるからなのですが……

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実はこの斜面は墓地になっております。小さな墓石が倒れていたりしていて荒れ果てていたんです。やはり以前来た時と変わらず、管理されていないように見受けられます。過疎化が進み戻ってくる人も減ってしまったからでしょうか。

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ただ以前来た時、首のないお地蔵さんや石仏などが幾つも放置されていたと思ったのですが、片付けられたのでしょうか、そう言った物は今回確認できませんでした。ずっと引っかかっていたのは前回その光景にゾッとしてスルーしてしまった事で、後から考えればあれは廃仏毀釈の爪痕だったのではないかと。

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2017年5月撮影した分校跡の下、道路沿いにあった祠。木像が無造作に立て掛けられています。

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その祠は崩壊。石垣の下に残骸が積み上げられています。しかし新たに小さな祠が建てられていました。

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簡素な造りですが、ちゃんとお祀りされていてホッとしました。木像は相変わらず立て掛けですが。

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廃仏毀釈とは簡単に言えば、明治政府の神仏分離政策が引き金となり、それまで蓄積されて来た檀家制度や葬式仏教に対する不満が爆発。神社、つまり鎮守の神様と仏教がはっきり区別された事によって、仏教に関する物に対する焼き討ちや破壊が全国的に広がった事件の事です。その痕跡が田舎などに行くとたまに残ってたりするのです。
今回その日本の黒歴史とも言える廃仏毀釈運動について掘り下げてみようと思ったのですが、結果的に片付けられていました。

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2017年当時、解体工事中だった廃屋。

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その跡地に廃材の山。予算の関係で廃材を処分出来なかったのでしょうか。

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今回目的の物は撮れませんでしたが、なにしろ両神地区はバスの本数が極めて少ないので、一度に一箇所しか巡れません。他に廃校跡が三箇所ほどあるのですが、また次回この辺りには来ようと思っています。

【日記】埼玉県秩父、小鹿野地方攻略その1
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